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原告 第2陳述書

注 記

この陳述書は、元々私が自力で日本語で書いたもので、後から弁護士がチェックしました。

 

 

 

陳述書(2)

平成21年1月12日

 

 

(住所) 〒964-0916、福島県二本松市、向原268-20、タイムスペース冬号室

(署名)            

 


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はじめに

(1)

私,ウェイン・マイケル・ダグラスは,本件が私の人生にどれだけ影響を及ぼしたかを示すため,最初の陳述書(平成20年1月21日付,甲A22)に加えて,この第2陳述書を提出させて頂きます。これにより,少しでも心の整理ができれば幸いかと存じます。以下の内容により,本件がより明確になれば幸いに存じます。


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私のバックグラウンドについて

(2)

本件が私の人生にどれだけ影響を及ぼしたかを示すため,先ず,自分のバックグラウンドについて簡単に紹介させて頂きたいと思います。私は1966年9月9日に,ニュージーランドのオークランド市で生まれてまもなく,今の母親である MD のもとへ養子に出されました。

(3)

5歳頃の時,育ての両親が離婚しました。それ以来,母親が私ともう一人の養子の息子を育て,母親の役割も父親の役割も自分ひとりできちんと果たしてきました。昼間は,常勤の仕事をし,夜は料理などの家事をし,週末には草刈や車の修理などをし,忙しく日々を過ごしていました。また,時々volunteer 活動をしてSPCAで動物のお世話までもしました。それでいて母親はたいへん心優しい人です。子供のためにベストを尽くしてくれました。この母親に養子に出されてとても恵まれていると今でも思っております。私は,1年間,全寮制学校に入学したこともありましたが,母のおかげでいつもとても健康で,楽しく毎日を過ごすことができました。また,スポーツにも積極的に取り組んで,周りにはたくさんの友だちがいました。


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私の日本への関わり

(4)

義務教育を終了して,私は建設業で働き始めました。しかし,80年代後半ごろ,不景気になったため,解雇され再就職することも困難でした。この状況への対策として,ニュージーランド政府は「成人教育制度」を設けました。母親は私に「この機会を利用して,スキルアップするのはどうか」と提案しました。ちょうどその頃,観光業が伸びつつあったので,ガイドの仕事でもやってみようと考えていました。その話を聞いた母は,「日本からの観光客が多いので,日本語を学べば?」とさらに提案しました。またその当時,観光の他に,ニュージーランドと日本の間の交流(ビジネスす,教育,スポーツなど)も盛んになろうとしていました。

(5)

それで日本語を学ぶため,他の高校に編入し,日本語を勉強することに決めました。しかし,私には学費が出せませんでした。銀行で借りることを考え母と一緒に銀行に行ってみましたが,担保(物件)がないとローンは無理だと言われました。母親は思案の果て家を担保にし住宅ローンを借りることにしました。その結果,私は高等学校での3年間目の勉強を無事に修了することができました。

(6)

その1年の間,私は日本語の勉強をするに従って日本への興味が沸き,オークランド工科大学での2年間ディプロマ課程,さらに,文学士(普通学士号といいます)課程で勉強を続けることにしました。しかし,前回と同じく,私には学費がありませんでした。そこで,母親が自分の将来の年金を前借りし,私に貸してくれました。その際,必ず定年になる時までに返済してほしいという条件を付けました。私は母親の好意をとても嬉しく思い,「一生懸命に勉強して,いい仕事に就いて,年金をちゃんと返し,そして何よりお母さんが誇りに思える人になるように頑張ります」と約束しました。

(7)

母親の優しさに応えて,私は大学2年生の時に日本語学習で優れた成績をとり,ニュージーランド国の代表に選ばれ,日本で世界各国の優秀者60名と一緒に「日本語学習成績優秀者研修」に参加することができました。卒業後も身につけた実力やこの研修での経験を生かし,日本の自治体(役所)への就職に恵まれました。そこで努力を重ねた結果幾つかの実績を認められるようになりました。この時点での私は仕事の意欲に燃え,自分をさらにレベルアップし,将来はきっと成功すると確信していました。

(8)

この時,私は日本の国際交流活動,特にニュージーランド国との交流に貢献することを決心しました。また,30歳代の間に,一生懸命働いて40歳頃にゆとりのある生活ができるように貯金しておこうということも決心しました。


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めまい発作と,X医師の薬剤治療

(9)

前回にも述べました通り,2000年5月11日の午前2時ごろ,私は急に/突然回転性めまい発作で目が覚めました。その時は立つことさえ出来ない程とても激しい発作が起こりました。翌日の朝,病院へ行きましたが,診察のための科から科への移動も車椅子を使用しなければなりませんでした。最初の発作が起こってからの1週間は,ほとんど歩行することができませんでした。さらに,その後も,頭がぐらぐらしたりふらふらするといっためまいが毎日24時間常にしました。

(10)

2008年9月12日,私の尋問の際,他人が中毒を自分で経験しない限り,どれだけ苦しいものであるかは理解できないと私は申しました。そして,これを説明してくださいと言われましたが,いきなりその質問をされた私は,どのように答えたら良いかはわかりませんでした。しかし,その後,私はよく考えたところ,下記のように説明できると思いました。

  1. 治療開始後の数週間は,めまいは少しよくなりましたが,その後は,回復に向かうどころか再び悪化していきました。その結果,体が静止できず酔っぱらった人のような異様な体のふらつきが常に(毎日24時間)ある状態となりました。
  1. 治療開始約4ヶ月近く経った後に,私は大変な情緒不安状態に陥り,パニック発作,不安,気分の動揺,攻撃性,気が狂いそうな感じなどで苦しみ始めました。その症状の激しさや頻度は時によって変わることがありましたが,このような状態も(毎日24時間)続いていました。
  1. ジャドスン先生の意見書(2008年4月24日付)にある通り,治療期間中に生じた他の新しい症状でも同時に苦しみ,これらも(毎日24時間)続いていました。

(11)

私は,普通の人として生活することが不可能となり,四六時中酔っぱらった人のような異様な体のふらつきを感じ,その上,衰弱性症状(パニック発作,気が狂いそうな感じなど)にも1年以上も苦しまされる日々を送りました。私は11月ごろ,ニュージーランドの母へ電話をした時に「お母さん,地獄に落ちたような感じなんだ。」と言いました。このような状態で毎日を送る中で,さらに気が落ち込み孤独感も抱くようになっていきました。

(12)

注:治療期間中,X医師は様々なコメントをしましたが,その中のひとつは「君はもっと強くならなければなりません」ということでした。

(13)

注:X医師は,2000年11月24日の時点で私のめまいが回復していたと主張していますが,同年12月21日に,私はOセンターの問診表には“めまい”また“平衡感覚低下”と書いています。また,1年後の2001年12月12日に,ニュージーランドに於いて神経科のハチンスン医師にもめまいを訴えています。2001年12月下旬ごろ(投薬を止めて約8ヶ月後)初めてめまいが持続的ではなく断続的になり,明らかに回復に向かいました。治療を続けて行くうち,私は立って料理を作ることができなくなったほど平衡感覚が悪くなりました。

(14)

日本で最後の日々を過ごしていた私は,ますます極度の疲労状態に陥り,50メートル以上歩行することもできない状態になりました。職場での最後の日,埼玉県国際交流協会に勤務期間中,不幸となった経験がよみがえり,突然泣き崩れてしまいました。当時の私は中毒になっていた事さえ知らず,何がどうなってこんな状態になってしまったのかがわからないという事実が,より一層の混乱をもたらしました。

(15)

薬物の悪影響で私はとても汚れた感じがして,当時の苦痛を思い出させるような物を持ち帰りたくないという思いから,アパートの片付けをした時,洋服などすべての持ち物を捨てることにしました。持ち物を捨てることにしたもうひとつの理由は,ニュージーランドに何も持って帰る力がなかったからです。職場を出てすぐに,大田区に住んでいる以前のホストファミリーのところに向かいました。途中,駅のトイレで仕事服を脱ぎ,靴も一緒にすべての服をゴミ箱に投げ捨てました。

(16)

それから古いトレーナーに着替えて,パスポートと航空券だけを手に持って空港へ向かいました。


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薬物離脱治療・回復

(17)

私がタラナキ空港に着いた時,母は私のことを見間違えて,半分死んでいる痩せたゾンビに見えると悲しそうに言いました。母が車で近くの内科まで連れて行ってくれました。その内科は,母の家のある道をおよそ100メートル行ったところに位置していますが,私はそのような距離でさえ歩ける状態ではありませんでした。診察結果,ベンゾジアゼピン中毒という診断を受け,ジャドスン先生が担当となった薬物離脱治療を紹介されました。

(18)

この間,気分動揺,攻撃性反応,パニック発作,動悸,過敏症などの症状が一層増加して私はとても危険な状態にありました。日本での処方内服期間中も大変苦しかったのですが,薬を断ってからの苦しみが和らぐのは,まだまだ先のことでした。本当に細かい事で母に物凄く怒り出した時もよくありました。ある日,夜に,母と一緒にテレビを見ていた時のことをよく覚えています。上記の症状での苦しみの最中,私は座っているいすを前後に軽く動かしていた時,自分は爆発しそうな感じがしました。私は「自分をコントロールできなくなって,母を襲うことにならないように…」と心の中で自分に言い続け,「この最悪な状態が一日も早く終わりますように」と神に祈り続けました。でもなかなか終わらず,苦悩がその後でも長い間続きました。

(19)

本当に最悪でした。私は真剣に逃げ出そうと頻繁に考えていました。でも逃げるところは?その時住んでいるところは自分の家でした。しかし,気持ちとしてはまさに地獄にいるようでした。

(20)

また,音に過敏になった私は,「テレビの音を下げて」といつも母にしつこく言っていました。それに,光にも過敏になったので,視覚効果の多い番組を見ることに耐えられませんでした。このようなことは,年老いた母親には相当なストレスになりました。母はこれが原因で,20年ぶりにタバコを再び吸い始めました。これに対して大きな罪悪感を持った私は,泣きながら母にやめるように懇願したことを覚えています。この時の母はまだ仕事をしていて,私の中毒状態で眠れなかった毎日だったと思います。これも間接的にも母の健康状態に悪影響を及ぼしました。

(21)

仕事ができる体調ではなかった為,疾病手当金を受給し始めました。しかし,生活費やリハビリにおける様々な治療費などはその疾病手当金額を遥かに上回りました。その結果,後で,私は学費のため以前に母親に借りたお金(年金)を返そうとしていたはずなのに,返すどころか,自分の生活費を補うために年老いた母親に再び借りなければなりませんでした。これは経済的な余裕もなく,自分一人で精一杯な母にとっては大変な負担となりました。

(22)

最初の数ヶ月間は,運転をする調子でもありませんでした。また,ある程度よくなった時に,ジムのメンバーになろうとしましたが,まだ酔っ払った人のように歩いたり,バランスがうまくとれず,何かに寄りかかる私を見て,ジム側は私をメンバーにすることさえ躊躇していました。この時のベンチプレス能力は,わずか20kgでした。

(23)

リハビリを受けて数ヵ月後,ようやく運転免許を更新することができました。その時,店などの近いところまで母は車を運転させてくれました。でも最初は,私が普通に運転できるかどうかを試すため,母が同乗し,何回も試運転をしました。(注:以前,私は20年間,普通運転免許(自動車・二輪車)を持ち,無事故の運転歴を持っていたのです。)。

(24)

その数ヶ月後,運転する自信を取り戻し,はじめて実家から遠く離れたオークランド市まで友だちに会いに行けるくらいになりました。しかし,いまだに身体は痩せ細っていて,顔がくぼみ,顔色も悪く,病人に見えたので,友だちのみんながとても驚きました。

(25)

最初に,兄弟のような親しい友人,また以前行ったジムのトレーニング・パートナーのDaleを訪ねた時,彼が,約40メートルの坂になっている車道の上の方にある郵便受けに手紙を取りに行こうと言いましたが,私はまだ坂を上るほど力がなかったので断りました。当然,それを聞いた彼はとても驚きました。また別の時,海岸沿いをゆっくり散歩しようと誘われましたが,その時もまだ平衡感覚がおかしくて歩行する力もあまりなかったので,断らなければなりませんでした。

(26)

2001年10月ごろ(薬を中止してから約5ヶ月後)当初のめまい発作に伴った症状と薬剤治療期間中に生じた症状も徐々に良くなってきていました。体重も増え,体力や持久力も少し出てきました。また,2001年12月ごろ,日本で一番最初にめまい発作を起こして以来,初めてめまいが持続的(毎日24時間)状態ではなく,断続的に起こるようになりました。投薬をやめて結局は,時間と共に平衡感覚は100%回復しました。(注:今でも時には,パニック発作を伴う軽いめまいをすることがありますが,これは以前のめまいとはぜんぜん違う質のものです。)。

(27)

2001年12月ごろ,ガールフレンドのKさんが日本からニュージーランドに会いに来てくれて,3ヶ月間一緒に過ごしました。2001年2月ごろ(10ヶ月前)日本で会って以来,久しぶりに会うことができました。そして,彼女は日本で会った時より健康的に見えると言いました。体重が増えて顔色も良くなったと笑顔で言ってくれました。私は全く別人のようだと言いました。一緒に過ごした時間は楽しかったのですが,その間,時に彼女が傷つくようなことを沢山言ったと後にKさんが言いました。それには自分で気が付いていませんでしたが,おそらく私は薬の影響で苦しんでいて,怒りっぽくなっていたからだと思います。それが原因で喧嘩もよくし,それ以来,私たちはあまりいい関係ではなくなりました。

(28)

2002年5月ごろ,動悸,胸の圧迫感,胃痛,吐き気などの,ベンゾジアゼピンによる症状のほとんどは,この1年間以内に消えて行きました(注:退薬後,数ヶ月間以内に消えた症状もあればもっと長い間残続した症状もありました。)。しかし,パニック発作をはじめ,薬物中毒状態に伴ったトラウマや情緒不安定はまだ続きました。2002年6月ごろ,医師より復職の許可を得て,15ヶ月前に日本から帰国して以来,初めて仕事ができるくらいに元気を取り戻すことができました。そこで,オークランド市に引っ越し,就職活動をすることにしました。オークランド市に引っ越した私はなるべく普通の生活を送るように努力していましたが,実際には,最初の数ヶ月は,仕事以外は寝ることしかできませんでした。

(29)

それ以来,私は自分の健康,また普通の生活を取り戻すようにとても努力してきました。ようやく,再就職ができ,勉強もゆっくりながらでき,再び運動も楽しめるようになってきました。2003年中旬ごろ,ようやくジムでのトレーニングの成果が出始めました。X医師の治療のため,私は自分の足で立つことさえ難しかったのですが,この時点での私は180kgのスクワットや100kgのベンチプレース,10時間程度のハイキング等の運動ができるようになりました。体重が病的と言える64kgから筋肉のついた84kgの身体に変身しました。以前の中毒状態によるトラウマで苦しむ時はまだありましたが少しずつ自信も取り戻しました。

(30)

注:私がニュージーランドに帰国したことにより,症状が消えたとX医師は主張しているそうですが,この場を借りて,これに対して一つ質問をさせていただきたいと思います。まず,私はSylvian Aqueduct Syndrome であったとは全く信じていませんが,SLASの患者はただ帰国する事により回復するのでしょうか?(注:回復はSLASという診断の薬剤治療を止めてから始まったのが事実です。この点もお考えください。)


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中毒による後遺症

(31)

X医師の投薬を止めてからは,健康状態が著しくよくなってきましたが,私は以前の自分とは全く違う人である事は明らかです。今現在でも以前の中毒状態によるトラウマやパニック発作で苦しんでいます。夜,パニック発作で突然目が覚めることもあり,X医師,また同医師の治療について悪夢を見ることもあります。また,以前よりも疲れやすく,ストレスに耐える力もかなり低下しています。その結果,責任の重い仕事や残業のある仕事は遂行することができず,これは収入を得ることに直接関係する労働能力にも大きな影響を及ぼしています。

(32)

ベンゾジアゼピン中毒になって以来,英語講師を勤めたり,辞めたりしてきました。英語講師の仕事は,マネジメントの仕事よりも責任が軽く,肉体労働の仕事よりも給料が高いので,英語講師は今の私に合った職業だと思われます。しかし,授業中にパニック発作を起こすと,この仕事も難しくなることもあります。私の事情を理解してくれそうな生徒の場合は,事情を説明して彼らの理解を得ることにより,気が少し楽になりますが,そうでない場合は,ただその場で耐えるかトイレに避難するなどの方法で対処しなければなりません。


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原因探求・損害賠償請求準備

(33)

X医師の薬物処方から離脱することに成功して,再び自分の健康を取り戻すことができた私は,なぜ治療期間中に調子がそんなに酷い状態になったのか,その理由を突き止めたいという気持ちがますます大きくなってきました。言うまでもないですが,治療を受けてそんなに調子が悪化する事は普通ではないからです。2度とそのようにならない予防,また自分の心の整理ができるため,上記の疑問を明確にする必要があると実感しました。

(34)

その結果,2003年初旬ごろ,X医師の診断や治療についてのリサーチを開始することにしました。そして,文献や他の専門医(ニュージーランドの神経科)またはその後,日本の神経科にも相談をしましたところ,私の当初の症状は,「世界の医学界に認知された Sylvian Aqueduct Syndrome という診断の普遍的基準定義」とは全く違うものであり,またベンゾジアゼピンは「世界の医学界に認知された Sylvian Aqueduct Syndrome の標準的治療」とは全く違うものである事がわかりました。

(35)

私は自分の健康のためにどうしたらいいか,ベストな方法を探る機会を得られなくてとても不満に思っています。私はリサーチをすればするほどX医師に不正な扱いを受けたという気持ちが大きくなってきましたので,損害賠償請求の準備をすることに決めました。

(36)

このリサーチ及び損害賠償請求の準備は多量の仕事となり,これもさらに,心身的にも金銭的にも大きな負担になりました。その結果,私自身だけではなく,周りの人にも大きな影響を及ぼしています。


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再来日

(37)

私は,以前の日本でのトラウマによる恐怖感をなくして,心理的障壁を乗り越えるため,来日して,日本で再就職すべきである判断しました。また,他の人が私のように苦しむようにならない為にもこの事件についてみんなに知ってもらう必要があると実感しました。

(38)

再来日する事は,私にとって非常に大きな心理的に前進する一歩という意味がありました。

(39)

日本に到着して,新しい仕事に向かう前,損害賠償請求準備の次の段階として,大宮に法律相談をしに行きました。前回,日本では中毒状態で苦しんでいた時と同じ電車に乗ったり,同じ駅を通ったり,同じ音が聞こえると,すごい不安感を味わったことをよく覚えています。最初は大変でしたが,この時の私のほうが健康的であって逞しい身体をしていたので,自信を持って,自分の恐怖に向き合ってみると,時間と共にこの不安感は緩和していき,これも自分の治療の一環になると感じました。

(40)

私は,大宮で法律相談をした際,できるだけ示談によりこの件を円満に解決したいという気持ちでしたので,日本では調停制度があるかどうか先ず訊いてみました。その結果,調停は可能だとわかり,申し込方法についてのアドバイスも受けました。長野県での新しい生活に少し落ち着いてからまもなく,この準備を再開始しました。事前にニュージーランドで準備してきた書類を書き直したり,病院からカルテを集めたり,また情報をもう一度分析したり,まとめたりすることが必要となりました。


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調停へ

(41)

2006年3月24日,最初の調停日(代理人弁護士なし),私の足が震えるほど緊張していました。今までの苦悩やトラウマを引き起こした人物と目を合わせることがとても怖かったです。しかし,残念なことに,X医師本人と同席することがないまま最初の調停が終わりました。X医師は,調停にも来ませんでした。X医師は,私が勝手に騒いでつまらぬ迷惑をかけているだけだと言ったそうです。また,M弁護士は,その場で自分だけが話し続けていて,私には発言の機会を与えてくれませんでしたので,次回はちゃんと話し合うことができるように,私はクリニック側及び調停委員に手紙を書くことにしました。その数日後,X医師からの郵便物が届きました。中には同医師の書いた本が5册ぐらい入っていただけでした。

(42)

2006年4月13日,第2回調停日(代理人弁護士なし),その日も足が震えるほど緊張していました。しかし,残念ながら前回と同じく,X医師本人と会えないまま調停が終わってしまいました。

(43)

幸いなことに,調停委員が法律扶助協会(現「法テラス」)を通じて,代理人弁護士を紹介してくれました。これで現代理人弁護士のA弁護士と初めて面識ができ,ようやく損害賠償請求の苦労を分かち合ってくれる人が現れて私はとてもほっとしました。

(44)

2006年5月26日,第3回調停日(代理人弁護士あり),今回は,A弁護士が私の代理人弁護士として出ていただき,X医師も彼の代理人弁護士と一緒に初めて,私と同席しました。

(45)

本件を“戦い”ではなく,双方が話し合うことにより,円満に解決できる“問題”として進めていきたいと私は最初,A弁護士に頼みました。しかし,A弁護士は,「なるべく話し合いでまとめたいとの気持ちは分かるから,そうしたいが,現状の相手方の態度では円満にまとめることは,難しい。円満にまとめるためには,物事をあまりハッキリさせない必要があるが,物事をあまりハッキリさせないままでの話し合いでは,相手方は責任を認めず,高々100万円でしょう。

ウェインさんは,それでは納得しないのではないですか。要するに,あなたが自分の権利を主張し,今後このような悲劇が行われないようにしたければ,とことん戦うしかない。」と言いました。A弁護士は,訴訟と同様の戦術をとり,X医師も,徹底的な応戦の構えをとり,結局,1年間以上の調停が不成立で終わりました。


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訴訟へ

(46)

調停が終わった時点で,A弁護士は,「これで止める必要はない。」と言いました。同弁護士から,訴訟の大変な負担を告げられ,私はためらいもありましたが,止めれば今までの苦労も意味ないと思い,訴訟提起することに決めました。

(47)

調停に加えて,訴訟まで進める事は,やはり,さらに大きな負担になりました。また,力になってくれる人は,日本人では,A弁護士と,途中で参加したH弁護士以外はほとんどいませんでした。2人の弁護士は,私に対して,疑問点を徹底的に質して来,これに答えるのも大変でした。この件により,私の性格が変わったと母が言い,以前よりもいらいらしやすくなったと言います。

(48)

注:ただし,裁判によるストレス程度は,2000年ごろのストレス程度よりもぜんぜん比較ならないほど大きなものとなっている反面,今現在の健康状態は,2000年ごろの健康状態よりもぜんぜん比較ならないほど良くなっています。


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その他の損害

(49)

2001年に,ニュージーランドに帰国後,年老いた母親は私の生活費をもう援助することができなくなりましたので,私はやむを得ず,銀行ローンを借りることにしました。定期的に必要な治療費,歯の治療費,生活費,着るものなどのためにこのローンはどうしても必要になりました。

(50)

最初は,このローンはNZ5595でしたが,後で就職のためオークランド市に引っ越す際に必要な諸費用,新しい仕事の準備費,車の修理代,また母に借りたお金を少しでも返すために,またこのローンをNZ$16,483.41まで伸ばす必要にせまられました。その借金の利子の総合計額はNZ$11,355.40でした。私がベンゾジアゼピン中毒状態にさせられなかったら,その利子を払う必要はありませんでした。そのため,これも私が負わせられた損害の一つです。

(51)

私の人生へのもう一つのダメージは,今までに失った様々な機会です。同じ年齢の多くの友だちは結婚して,子供を持ち,いい時期を狙って不動産に投資し,キャリアを発展させNZ$100,000以上の収入を得て,修士課程等の勉強を続ける機会がありました。一方,私は,以前から自己成長また将来のために大変努力してきたにも関わらず資産は無くNZ$40,000の借金を持ち,以前の中毒状態による後遺症に悩み,膨大な額の国際的訴訟の負担を負うことになっているだけです。

注:金銭的な動きは,単なる線形的ではなく,倍数で動くものです。例:money makes money(金は金を生む),また損は損を生む。まさに,英語のことわざのとおり,”The rich get richer and the poor get poorer”。 去年,洋服を買うために社会福祉からお金を借りる必要となったほど今現在の私はお金に困っています。

(52)

失った機会の外にも裁判準備のため様々な資料を用意する必要となり,これもさらに金銭的な負担になりました。例えば:翻訳費用(初期の頃。最近は,A弁護士とH弁護士が訳してくれます。),ニュージーランド病院への相談費用,書類作成代,交通費など。しかし,私にはあまりお金がなかったため,翻訳の手伝いの代わりに友だちの家の改装の手伝いをすることもありました。また,日本で尋問に出頭するため,友だちから航空券代を借りました。今回,私は仕事もなく,お金もなく,宿泊費もないという状態で来日しました。

(53)

今まで失った時間も私の人生に非常に大きなダメージをもたらしました。当初のめまい発作を起こし,またそれに伴ったベンゾジアゼピン中毒になった事はもちろんですが,その後の裁判にも私の多くの時間が奪われてきました。この時間の損失は2000年から今現在に至って,ほぼ10年間(私の30年代のほとんど)が経ちました。これは,青年として人生の最も貴重な時期だと言え,家庭作りやキャリアを進める時であるからです。人間にはただひとつの人生しかなく,この貴重な時間を取り戻すことができません。


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最後に

(54)

薬物中毒により,健康,家族,仕事,人間関係などをはじめ,人生に大きな被害を引き起こす事実がよく知られているもので,また訴訟も同様です。不幸なことに,ほぼ10年間に渡り,私はこの両方とも連続に痛感してきて,当然にこれは私の人生には非常に大きなダメージをもたらしました。この件が続けば続くほど損害も共に生じていきます。これ以上苦しみたくはありません。

(55)

後遺症を負っているにも関わらず,私は再び普通の生活ができるように大変努力をしているところです。今現在,JICA での仕事に復帰して,3ヶ月間の契約を働いています。以前の中毒による後遺症により,時々パニック発作を起こして精一杯ですが,頑張っています。

(56)

この耐え難い試練の最も辛い事かも知れませんが,心優しい年寄りの母への影響です。母は大変苦労ばかりの人生を送ってきて,自分の子供が成功するために,自分のやりたいことを犠牲にして,常に温かい支援をしてきました。2008年9月ごろ,尋問のため来日する直前,私は母の部屋に入ったところ,彼女はベッドの上に横になっていました。私の中毒問題,また裁判による負担が母の老けた心や優しい顔には明らかに出ていました。確かに,教育費のために貸してもらった年金もまだ返すことができていない事も母には相当な負担になっています。

(57)

この裁判は,今まで経験してきた事の中,遥かに最も難しいものとなります。しかし,真実への強い信頼感,そして自分に対する責任感,またこれから中毒になる他人に対する責任感は,これまでの力になりました。関係者の方々には,本件についての事実や重要性を訴えるために,私はベストを尽くしてきて,これ以上私はできることはないと思います。今の私は何とかこの事件を乗り越えて,普通に生活を送りたいです。

(58)

最初の陳述書にもお書きしましたとおり,私は外国人で(ニュージーランド人),X医師は有名な医師ですが,公正なお裁きがなされるものと心から確信しております。

以上


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日本語訳について

このサイトの主要言語は英語です。裁判で使用された日本語の原文を除き、日本語はすべて翻訳となっています。

その翻訳は私自身を含む複数の人によって手がけられました。従って、品質やスタイルなどに違いが見られます。

私の母国語は日本語ではありませんので何卒ご理解いただきたくお願い致します。その結果として、日本語が不自然に響く箇所があるかと思いますが、どうぞご了承ください。

ジョン・マースデン

「もし何かの薬を飲み続け、それが長い長い災難をもたらし、あなたからアイデンティティをまさに奪い去ろうとしているのなら、その薬はベンゾジアゼピンに違いない。」

ジョン・マースデン医師
ロンドン大学精神医学研究所
2007年11月1日

フィリップ・ウーラス

「我々の社会において、ベンゾは他の何よりも、苦痛を増し、より不幸にし、より多くの損害をもたらす。」

フィリップ・ウーラス下院議員
英国下院副議長
オールダムクロニクルOldham Chronicle (2004年2月12日)

ヴァーノン・コールマン

「ベンゾジアゼピン系薬剤はおそらく、これまでで最も中毒性の高い薬物であろう。これらの薬を大量に処方してきた途方もなく大勢の熱狂的な医師達が、世界最大の薬物中毒問題を引き起こしてきたのだ。」

ヴァーノン・コールマン医師

薬という神話 (1992)

デイヴィッド・ブランケット

ブランケット下院議員、ベンゾジアゼピンについて語る。

「これは国家的スキャンダルである!」

デイヴィッド・ブランケット(英国下院議員)
1994年2月24日

ジェレミー・ローランス

「薬があれば、製薬会社はそれを使える病気を見つける。」

ジェレミー・ローランス (ジャーナリスト)
インディペンデント紙 (2002年4月17日)

マーシャ・エンジェル

「製薬会社に対して、彼らの製造する薬について公正な評価を期待することは、ビール会社にアルコール依存に関する教えを期待するのと同じようなものである。」

マーシャ・エンジェル医師
医学専門誌"New England Journal of Medicine"元編集長

マルコム・レイダー

「ベンゾジアゼピンから離脱させることは、ヘロインから離脱させるよりも困難である。」

マルコム・レイダー教授
ロンドン大学精神医学研究所
BBC Radio 4, Face The Facts
1999年3月16日

ヘザー・アシュトン

「長期服用者のうち15%の人たちに、離脱症状が数ヶ月あるいは数年持続することがある。中には、慢性使用の結果、長期に及ぶ障害が引き起こされる場合もあり、これは永続的な障害である可能性がある。」

ヘザー・アシュトン教授
医学博士、名誉教授
Good Housekeeping (2003年)

スティーヴィー・ニックス

「クロノピン(クロナゼパム)とは恐ろしい、危険なドラッグだ。」

スティーヴィー・ニックス(歌手)

ポール・ボーテン

この気の毒な問題に取り組む全ての関係者は、トランキライザー被害者の為に正義を提供するよう努めるべきである。

ポール・ボーテン(英国下院議員), 1994年

アンドルー・バーン

「ベンゾジアゼピンを飲むと災難がやって来る。」

アンドルー・バーン医師
オーストラリア, NSW, レッドファーン
ベンゾジアゼピン依存 (1997)

マーシン・スライズ

'benzo.org.uk'というサイトは実に素晴らしい。」

マーシン・スライズ
ロシュ社ポーランド 製品マネージャー

Informed Consent

The informed consent argument formed an integral part of the case because it was needed to prove negligence.

Without negligence there would have been no accountability, and therefore, no case from the outset.

In section 4 of his fourth report, Addictive Medicine Specialist, Dr. Graeme Judson explained the principles of prescribing and informed consent in relation to my case and sample applied.

Monitoring

The monitoring argument also formed an integral part of the case because it too was needed to prove negligence.

As above, without negligence there would have been no accountability, and therefore, no case from the outset.

As with informed consent, in section 4 of his fourth report, Addictive Medicine Specialist, Dr. Graeme Judson explained the principles of prescribing and monitoring in relation to my case and sample applied.

裁きは公正ですか?

このセクションでは、私が闘った日本の裁判についてお話します。特にそこで現れた、明らかに不当な処置と思われる事例のかずかずを紹介します。これらの事例をわかりやすくお伝えするために、「東京高等裁判所の判決」と「中毒治療科の報告書」への参照箇所(リンク)がいくつか出てくるので是非ご参考ください。また、「中毒治療科報告書」は、一貫して、法的証拠およびDSM-IV-TRの依存症診断基準に基づいて書かれていることにもご留意ください。

このセクションを読む

臨床用量・・・

臨床用量のベンゾでは中毒にならないと思っていませんか?

考え直しましょう!

“もしベンゾジアゼピンが定期的に2~4週間以上にわたり服用されるならば、耐性と依存が生じる可能性がある。最小投与量はなく、例えば耐性と依存は2.5mg~5mgのジアゼピンの定期的な服用後に見られたこともある。”

ヘザー・アシュトン教授(英国、ニューカッスル・アポン・タイン大学名誉教授、臨床精神薬理学)。

フリートウッド・マック

スティーヴィー・ニックス: “嘘をついて”(Little Lies

医師: ベンゾジアゼピンを飲めば気分が落ち着くから、もうコカインに戻ることもないよ。

歌手のスティーヴィー・ニックスは自身のベンゾジアゼピン処方薬離脱経験を「“地獄”のようでコカインやヘロインからの離脱よりも質が悪かった」と表現しながら、クロノピン(リボトリール)の危険性を訴えています。

「クロノピンは私をゾンビにした」(スティーヴィー・ニックス, US Weekly, 2001)

ストーリーはこちらから

インスピレーション

裁判という究極のストレスに悩まされるチャレンジにおいて、私はいつもラグビーNZ代表のオールブラックス、とりわけキャプテンのリッチー・マコウ(Richie McCaw)からインスピレーションを得て、それを活かしていました。

状況がどんなに厳しくなろうと、どんなに不当に扱われようと、彼らが不平を言うことは決してなく、ただただ前進していくのです。

素晴らしい!

Results Speak Volumes!!

I went from being barely able to walk when I was on benzodiazepines to being able to squat 180kgs following abstinence and rehabilitation.

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Challenges

There were many challenges in my case.

These included fighting a world famous doctor in another country and language, acting as go-between for a harsh natured Japanese speaking lawyer and a sensitive natured English speaking doctor, making my Supreme Court Appeal whilst evacuating from Fukushima etc during the 3/11 disaster etc…

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