私のこと / 私のストーリーについて
避難住宅の前で
(長野県 2012年)
名前: ウェイン・ダグラス
生年月日:1966年9月9日
出身地: ニュージーランド、オークランド市南部
大学専攻科目: 日本語
職歴: 国際関係促進、翻訳、英語教師、イベント企画
趣味: アウトドア、ジムでのトレーニング、料理
日本滞在期間: 約15年(2014年3月の時点で)
経歴:
私は生まれて6週間後に養子に出されました。ニュージーランドのオークランド市南部にある下流中産階級の郊外住宅で育てられました。4歳の時、養父は家から出て、養母はフルタイムの仕事をしながら、ただひとりで私と弟を育つことになりました。9歳の時、私は全寮制の学校に入学しました。
義務教育を終了して、建設業で働き始めました。しかし,80年代後半ごろ、不景気になったため、解雇され再就職することも困難でした。そこで、「成人教育制度」を利用し、日本語を学ぶため、他の高校に編入し、日本語を勉強することに決めました。
翌年、大学の日本語科にて勉強を続けるために、都会に引っ越しました。しかし、学費は高く、知らないうちに、学資ローンや銀行ローンを組んで、また大学の勉強を最後までできるため、母が自分の将来の年金を前借りし、私に貸してくれました。
お母さんの期待に応えるため、私は一生懸命に勉強をし、日本語学習成績優秀者ニュージーランド代表として2週間の研修参加で初来日しました。そして、1995年に卒業しました。
青年時に日本とニュージーランド間の橋渡しを行う夢を抱き来日し、いくつかの政府機関において国際関係の仕事に従事しました。
私の仕事は日本、ニュージーランド両国でテレビや他のメディアにおいて注目され、高く評価されました。全てが順調に行っていましたが、2000年の5月11日にはかなく変わってしまいました。
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>>> 驚いたこと (1)
- 私はインフォームド・コンセントもなしにベンゾジアゼピンを処方されました。不安に対して処方されたのではありません。精神科医から処方されたのでもありません。急性の目眩症状(耳の障害からくるもの)に処方されたのです。
- 私に実際に発症していた「前庭神経炎」の場合でも、誤診された「中脳水道症候群」の場合でも、この薬を処方することは全く不適切な治療でした。これについては「専門家による検証」をご覧ください。
- 私は、ベンゾジアゼピンとは何の薬であるかさえも知らなかったのです(当時はまだ、インターネット上に、現在のような情報はほとんどなかったので、薬や治療法について自分で調べることは困難でした)。
医療従事者にベンゾの危険性・有害性について教育をさせていない厚生省
背 景
2000年5月11日、私は急性めまい発作を起こし、その後は継続的な平衡障害に悩まされていました。総合病院で受診しましたが、診断はありませんでした。
6月頃、私の平衡感覚はゆるやかに回復しつつありましたが、まだ完全に正常な状態ではなく、フワフワするような、グラグラするようなめまいが残っていました。
総合病院が東京のめまい専門医に紹介状を用意してくれました。MRI検査結果は陰性であったにも関わらず、そのめまい専門医は、誤って「中脳水道症候群(シルヴィウス水道症候群)」だと診断しました(中脳の外側溝(シルヴィウス溝)の狭窄により引き起こされる稀な疾患)。
医師は「この病気を治療するには、薬を使ってあなたの体質を構造的に変える必要がある」と説明しました。私はまだ病気に悩まされていたし、当時はまだ、インターネット上に、現在のような情報はほとんどなかったし、またその医師が平衡障害の権威であったため、医師の判断を信用して受け入れました。
その治療
薬の種類や危険性についてインフォームドコンセントはなかったため、何も知らずに、5種類の薬が併用処方されました。後でわかったことですが、その処方薬は3種類のベンゾジアゼピン系薬剤(コントール、リボトリール、グランダキシン)とトフラニールと呼ばれる三環系抗うつ薬、そして、ケタスという商品名で販売されている抗炎症剤(イブジラスト)でした。3種類のベンゾは粉にして混合し一包化されたもので、合わせて30mg以上のジアゼパム換算量でした。
処方内服開始約2週間後の時点:いくつかの症状の落ち着きがみられました。例:不安(めまい発作の原因が不明であった不安)、筋肉緊張、めまい(処方内服する前は、時間と共にゆるやかに回復しつつあった)。
処方内服開始約2ヶ月後の時点:症状がぶり返し・悪化(例:筋肉の硬化)、また以前はなかった新たな症状も出現し始まった(例:動悸)。
処方内服開始約4~6ヶ月後の時点: 症状の顕著な悪化がみられました。筋肉の硬化(処方内服前は腰や首のあたりだけに限られ時折発生していた筋肉の凝り(平衡感覚低下によるもの)が、身体全体に広がり、時折発生から継続的になりその性質も変化した)。身体全身の筋肉がかなり硬くなり(重い感じ、またマヒした感じ)、前額部から頭皮にかけての締め付け感、顎が動かなくなる程悪化しました。当初にみられためまいの改善も止まり、再び悪化しました。
また以前はなかった新たな症状も多く出現していた。例:頻脈(脈拍数: 68→90)、胸部への圧迫感、ほてり(のぼせや寒気)、熱に対する敏感性、ピリピリ感、各種刺激に対する過敏性、軽度な耳鳴り(就寝時や起きがけに)を覚え、口の渇き、味覚異常、口内炎、胃痛、食欲不振と吐き気(当初のめまい発作時にもあったが再び新たに発現した)、性欲減弱。情緒不安定(執拗に起こるパニック発作、慢性的な不安や抑うつ、朦朧・引き離されるような感じ(感情麻痺)、集中力喪失、話しぶりが下手になった、混乱、気分の著しい動揺、攻撃性、侵入的・空回りする纏まらない思念、けいれん発作を起こし又気が狂いそうになる感じ)。視覚障害(光に対する過敏症の増加(飛蚊症を伴う)、色つきの閃光、閃光、眼がちかちかすること、過度の残像、霧視(ぼやけて見える、目がかすむ)、視覚がコマ送りに見えること、顎の痛み、関節痛、心身全般の健康状態の悪化…処方期間中、1ヶ月で1年ぐらい老けていたように見えました。身体は痩せ細っていて、顔がくぼみ、顔色も悪く、病人に見えたので、友だちのみんながとても驚きました。
処方内服までは神経性疾患、精神性疾患、不安障害などの病歴は全くありませんでした。
後でわかったことですが、その当時の私は、離脱症状と副作用に悩まされていました。
「耐性が形成されると、たとえ薬を飲み続けていたとしても、服用中に“離脱症状”が出現します。このように、多くの長期服用者が苦しんでいる症状は、薬の有害作用と、耐性からくる離脱作用が混ざり合ったものです。」(アシュトンマニュアル参照)。
病院を変えた
私は自分の悪化する体調についての懸念を一所懸命に医師に伝えようとしていましたが、いつもはその懸念を退けていました。その後、処方薬の服用を中止しようと試みましたが、できませんでした。心配していた私は、病院を変えることにしました。
しかし、新しい病院では、ベンゾジアゼピン依存症が完全に見落とされました。その結果、また別の出鱈目な診断(自律神経失調症)が付けられ、更に、ベンゾジアゼピン系薬剤(アルプラゾラム(ソラナックス/コンスタン)、クロナゼパム(リボトリール/ランドセン)が処方され、合わせて48mgのジアゼパム換算量でした。
その新しい医師は、もうひとつ(3つ目)のベンゾ(ブロマゼパム(レキソタン/セニラン)を処方内服させようとしましたが、薬物のせいで私の体調が益々悪化していた事を痛感していたので、同医師に相談した上で、その3つ目の処方薬を内服しないことにしました。
離 脱
日本のドクターへの信頼感を失った私は、ニュージーランドに帰国することにしました。空港に着いた時、出迎えた母は私のことを見間違えて、「半分死んでいる痩せたゾンビに見える」と悲しそうに言いました。帰国後に3度目に薬剤を断つよう試みたが、この時も失敗に終わりました。
地元の内科に診察を受けました。その内科は、私のいた実家から100メートルほどの距離でしたが、私は100メートルも歩ける状態ではなかった為、母が車で連れて行ってくれました。ベンゾジアゼピン依存症という診断を受け、タラナキ病院附属アルコール・薬物依存症患者治療センターに紹介されました。
減薬中および断薬後の数カ月間は、気分動揺、攻撃性反応、パニック発作、動悸、過敏症などの症状が一層増加して、私はとても危険な状態にありました。
日本での処方内服期間中も大変苦しかったのですが、薬を断ってからの苦しみが和らぐのは、まだまだ先のことでした。本当に細かい事で母に物凄く怒り出した時もよくありました。
新しい離脱症状も出現しました。例えば:顔面のピリピリ感、筋肉運動協調の喪失、ミオクローヌス反射(不随意運動)、油っぽい体臭 – 腺の反応など。
ある日、夜に、母と一緒にテレビを見ていた時のことをよく覚えています。上記の症状での苦しみの最中、私は座っているいすを前後に軽く動かしていた時、自分は爆発しそうな感じがしました。私は「自分をコントロールできなくなって、母を襲うことにならないように…」と心の中で自分に言い続け、「この最悪な状態が一日も早く終わりますように」と神に祈り続けました。でもなかなか終わらず、苦悩がその後でも長い間続きました。
本当に最悪でした。私は真剣に逃げ出そうと頻繁に考えていました。でも逃げるところは?その時住んでいるところは自分の家でした。しかし、気持ちとしてはまさに地獄にいるようでした。
処方薬が引き起こした認識障害があまり酷く運転もできませんでした。掃除機をかけるような簡単な家事でもかなり大変で、頭の中はぼんやりとして、集中力は大変衰えていました。
処方薬を中止してから約6ヶ月後、日本で最初にめまい発作を起こして以来、めまい(元々の訴え)が初めて回復に向けて、持続的(毎日24時間)状態ではなく、断続的に起こるようになりました。投薬をやめて結局は、時間と共に平衡感覚は100%回復しました。
断薬した最初の年に、殆どの離脱症状が改善しましたが、いくつかの症状、特にパニック発作は何年も残続しました。時には離脱症状の再発も出現し、本当の自分を完全に取り戻すのに、およそ10年間がかかりました。
後遺症
After coming through withdrawal, I developed cognitive impairment with a tendency to mix up letter order when writing or typing, confusing money amounts etc., memory problems, irritable bowel, frequent urination, constant running nose, more susceptible to stress etc., which all continue to this day. None of these existed prior to benzodiazepines and given that they were happening in my early forties, when I had always maintained a physical condition ten years my junior, these cannot be simply passed off as age related. It took about ten years for the panic attacks to resolve.
ベンゾジアゼピン系薬剤が私に誤って処方された以降、執筆する時、文字を飛ばしたり書く順番を間違ったりしがちになり、コンピューターのキーボードを使用する時に入力ミスを起こすこともよくあります。これが薬剤性の認知障害(後遺症)だと考えられます。
時には過敏性腸症になりやすく、処方内服前は、まったく無かったものです。
幸いなことに、パニック発作を起こすことはもうなくなり、完全に消えるのに10年間もかかりました。このパニック発作は処方内服中に初めて発症して、離脱の時はもちろんですが、その後も長い間続きました。結局、時間の経過とともに、徐々に回復しました。
時には、光点が見えて、PCモニターの画素の1つが故障して、モニターのバックライトの差し込む光の小さな点に見えます。当然に、飛蚊症は治りませんでした。因果関係を立証する手段はないようですが、ベンゾジアゼピン系薬剤を処方内服される人たちからはよくこの訴えを耳にします。
ベンゾジアゼピン服用による長期的(場合によると永続する)影響に関与している可能性のあるメカニズムのひとつは、脳内GABA神経細胞におけるベンゾジアゼピン受容体の活動変化で、その結果、脳のGABAへの感度が全般的に低下し、患者は中枢神経の興奮性が高まり、ストレスに対する感度が増大した状態におかれることが私は知っています(アシュトンマニュアル参照)。
専門家による意見
専門家による検証のとおり、私に実際に発症していた「前庭神経炎」の場合でも、誤診された「中脳水道症候群」の場合でも、この薬を処方することは全く不適切な治療でした。その後、新しく紹介された病院によるまた別の出鱈目な診断(自律神経失調症)もアシュトン教授作成に係る意見書では除外されています。
関連書類
- 原告 第1陳述書は治療の経過と共に、いかに中毒(依存症)が形成されていったかについてです。
- 原告 第2陳述書は中毒(依存症)がいかに私の生活や周囲の人たちに影響を与えたかについてです。
- 「私の中毒(依存症)」では、インフォームド・コンセントが無かったため自身に何が起きているのか知ることのないまま、異国の地で、いかにして中毒に耐えなければいけなかったのかについて書いています。
- 「経験した離脱」では、服薬中、減薬中、断薬時、そしてその後の数年間、いかにして禁断症状を耐え抜かなければならなかったのかについて書きました。(私は耐性の形成により、“服薬中”から禁断症状が出現し、その禁断症状は断薬後“何年も”持続しました。)
- 「回復」では、私がどれほど回復に努力したかについて紹介しています。ほとんど歩けなかった人間が、ジムで180キロのスクワットが出来るまでに回復したのです。
- 「私の闘い」では、ニュージーランドと日本を行き来した激しい闘いについて書いています。私は異国の地で、母国語と異なる日本語で、世界的に有名な医師と彼の病院、そして弁護団、また彼らの背後にいたに違いないネットワーク全体を相手にして、この裁判を闘いました。
-
ジャパンタイムズ特集記事を読めば私のストーリーの概要がよく伝わるかと思います。
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驚いたこと (2)
- 裁判中、被告医師は自らを守るために、私に対して、新たに「自律神経失調症」という全く別の診断名を主張し始めました。
- この「自律神経失調症」という別の診断を下すことに、薬物依存症を除外するための妥当な医学的根拠は存在しないも拘らず、裁判所は、私の薬物依存を否定する決定的な要因としてこの診断を認めました(「診断の問題」また「裁きは公正ですか?5項目」参照)。
厚生労働省での審査
(背 景)
2005年に再来日した後、私は国民健康保険を申請しました。
するとその担当官は14カ月の就労不能期間における収入減を申請
(最初の申請)
担当官の言葉を実行に移して、
(調査請求(不服申し立て)
そして最初の申請が取り下げられた後、関東信越厚生局(
(再調査請求)
続いて、
この最終的な審査は簡易裁判所のような雰囲気の所で行われ、90
しかし、話し合いの最終段階において審査官の1人が「
これに対して私は、「
この再審査の直後、
日本への再来日は私にとって非常に大きな心理的な障壁でした。遷
この時期にはまだ毎朝の起床時に急激な吐き気に襲われたり、
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驚いたこと (3)
裁判のセクションを見ればお判りのように、薬物依存に陥っていたことを示す証拠があるにも関わらず、また、薬物中毒リハビリ施設で、正式な離脱プログラムをその後数年に渡
「薬物中毒リハビリ施設で時間を過ごす目的は何でしょうか?」
東京高等裁判所前の私
以上の保険の申請がひどいストレスになりましたが、その後の裁判は更なる試練となりました。以下は東京高等裁判所において、どのように私の訴訟事件が取り扱われたかのおおよその概要です。
- 診断基準不採用:判決書では、3つの基準が無視され、その結果、私がDSM-IV-TR の診断基準に適合する薬物依存であったという事実を除外していない。このDSM-IV-TR基準が、本訴訟全体の基礎になっていた。
- 証拠を間違えて引用:高等裁判所の判決は「各添付文書には大量連用により薬物依存が生ずる可能性があることの記載があるのみであり」ということになりましたが、「大量投与又は連用中」という記載もありました。
- 臨床的関連情報不採用:例、以前は神経性疾患、精神性疾患などの病歴は一切なかった事実、断薬と減薬を試みるが何度も失敗した事実、薬剤治療開始前には、まだ就労能力があったが、薬剤治療を受けてからは就労能力を失い、また離脱治療後には、再び就労能力を取り戻した事実など。
- 選択的症状分析:裁判は私が依存状態にあったか否かという判断については、全体を見ようとせずに、大幅に省略し抜き出された特定の一部分だけの症状を基づいた。
- 離脱症状不採用:離脱治療施設のカルテに記録された新たな症状について、裁判官は決して取り上げようとしなかった。例、ミオクローヌス反射、筋肉運動協調の喪失、顔面のピリピリ感、頭部の筋肉の硬直(頭の周りをバンドできつく縛られた感覚)、油っぽい体臭 – 腺の反応など。
- 事実と異なる解釈:裁判所は、私が処方されたベンゾジアゼピンの用量が、治療中、ずっと同じであり、また薬物の増量を求めなかったことから、私には耐性が形成されておらず、よって中毒ではなかったと結論付けた。しかしながら、この見解は当方の主張と相反するものである。当方は「治療中に、薬物の増量を求めること」ではなく、「治療中に、離脱症状を生じていたこと」を耐性の根拠として主張していた。このことから、DSM-IV-TRの診断基準4 「制御不能」が本件に適用されたが、判決でこの事実は無視された。
- 非科学的な用語(診断名)採用:「自律神経失調症」という別の診断を下すことに、薬物依存症を除外するための妥当な医学的・科学的根拠は存在しないも拘らず、裁判所は、私の薬物依存を否定する決定的な要因としてこの診断を認めた。
- 経過関連事実否認:例、BZ系薬剤の投与開始から6ヵ月後の時点で、初めて、自律神経失調症という診断が付けられた事実。
- 事実関係の誤り:BZ依存症(中毒)自体がストレスや不安症また自律神経の亢進およびそれに伴う関連症状を引き起こす(所謂自律神経失調症)。
- 偏った情報採用:高裁が、中毒を引き起こすとみなされるBZの用量を決める際には、製薬会社が作成した添付文書(多くの欠点に満ちたもの)に信用を置いた。
- 信憑性の高い証拠不作用:臨床用量の投与といえども2週間から4週間以上定常的に服用しているとBZ依存症に陥ってしまう可能性が十分にあること、そして実際に依存症に陥ってしまう事実が記載されている余地のない専門家による証拠を無視した。
- 証人尋問申請却下:当方の重要な証人である依存症の診断医(薬物中毒治療科医長)の証人尋問を2回申請したにも拘わらず、その申請は正当な根拠が示されることもないまま却下され裁判が続いた。
- 説明義務違反の不合理な反論:被告医師が下した元診断「中脳水道症候群」と、その当時に処方された薬剤は整合性が取れないのだが、裁判官はその矛盾は追及することはなかった。それどころか、「自律神経失調症」についても、同被告医師が裁判開始前にはその診断をしたことがなく、裁判開始後になって初めて主張し出したのだという事実も顧みられることはまるでなかった。
- 経過観察義務違反の不合理な反論:裁判官は、「平衡感覚を観察するための定期検査」と、「服用中に起こり得る依存形成について適切な経過観察」の違いを区別しなかった。
- 欠陥を有する裁判:訴訟中に裁判長の交代があった。その結果、本件について詳しい裁判長の代わりに、本訴訟の経過やBZ系薬剤についての基礎知識を全く持っていない新しい裁判長が途中で本訴訟を引き継ぐことになってしまった。
- 関連事実の除外:注目すべき点は、考えられないほどに強烈なストレスであるはずの日本での裁判手続きの期間中でも私の健康状態はどんどん良い方向へ向かっていったこと。私の健康状態を示すこの事実は、私の症状が単に不安神経症/ストレス(自律神経失調症)からくるものであり、また私にはその体質であるとする被控訴人側の主張を覆すに十分なもの。その理由、ストレス(自律神経失調症)になりやすい体質で、ストレスに苦しんでいる人が強烈なストレス環境の中で健康状態が回復するなんてことはあり得ないからである。これでは全く理屈に合わない。この事実も判決には含まれていなかった。
- 最終弁論:最終陳述書の末尾に、「9ヶ月間に渡り、中毒性の強いBZを処方内服された後、私は薬物中毒リハビリ施設で治療を受けることになった理由は何だと思っていますか?」と質問を投げかけた。答えはないまま裁判は終わってしまった。
(世界トップ2の専門家は?)
BZ治療中及び投与量の減量中、また断薬後にみられた、ウェイン・ダグラスの症状(ジャドソン医師の報告書に記録されている)のほとんど全ては、依存症及び自律神経系の活動亢進によるものであり、これらは、このような状況でよく起こるものである。ヘザー・アシュトン教授(英国、ニューカッスル・アポン・タイン大学名誉教授、臨床精神薬理学)
親愛なるウェイン、あなたは間違えなく裁判による誤審を受けました。深く同情する次第です。敬具、マルコム・レイダー教授。大英勲章第4位、法学士、博士号、医学士、科学博士、英国精神医学会フェロー、英国医学アカデミーフェロー。英国ロンドン大学精神医学研究所名誉教授(臨床精神薬理学)。
関連書類
- 「裁きは公正ですか?」では、高裁判決にみられる多くの不当性を更に明らかにしています。
- 「損失額、損害額に関する公的な記録」は、裁判所に提出した損害賠償請求書や領収書など公的な資料に基づいて、私の裁判において発生した実際の損失額、損害額を公開しています。
- 原告 第1陳述書は治療の経過と共に、いかに中毒(依存症)が形成されていったかについてです。
- 原告 第2陳述書は中毒(依存症)がいかに私の生活や周囲の人たちに影響を与えたかについてです。
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最高裁への上告理由書を作成中に福島から到着した荷物
放射性物質のフォールアウト、余震、計画停電などが続く最中、私は何度も住む場所を移動しなければいけませんでした。また、失業やホームレスも経験しました。そのような状況の中、私は最高裁判所への上告理由書を書き続けました。決定が下された時点で既に、6ヶ月間で6回も転居することになりました。
失業保険申請を却下したハローワーク飯田橋
東京高等裁判所の判決は2011年2月7日に下されました(大震災および原発事故の5週間前のことでした)。
私は、3.11の災害までは、英語講師派遣会社から福島県内にあるJICA(独立行政法人国際協力機構)の二本松訓練所に派遣され、そこで働いていました。
3.11の災害の影響により、JICAの業務が一時的に大阪に移されたため、私も大阪に転居することになります。しかし、その僅か3か月後に、その英語講師派遣会社を解雇されることとなりました。その後、失業保険を申請したものの却下されてしまいました。ハローワークの担当者によると、その英語講師派遣会社が私の勤務状況について間違った情報を提供したため却下となったとのことでした。
(ハローワークは当初、雇用契約書や給料明細書などの正しい書類を持っていたにも拘わらず、不正確な情報に基づいて失業保険の給付を認めないという決定を下したのです)。
絶望的な状況に陥った私は、生きていくためには、その決定に対して不服申し立てをせざるを得ませんでした。その結果、私の不服申立は法的に認められ失業保険は私にも他に講師たちにも給付されることになりました(幼い子供を育っていた講師もいました)。
その後、この英語講師派遣会社は、JICAの福島訓練所での営業を再開しました。原発事故もある程度落ち着いた後、私は復職を申し込むことにしました。
しかし、何度も復職を試みたにも拘わらず、その派遣会社は未経験の新しい講師を雇い、私を復職させることはありませんでした(災害により離職するまでの私の勤務成績は評価されていたのです)。
また、この派遣会社は、私が避難している長野県のJICA訓練所でも営業を開始しましたが、この時も同じく、大震災の影響を全く受けていない未経験の講師を雇っていました(海外からの募集もありました)。
この状況を知ってもらおうと、私は、罹災前に実際に派遣されていたJICA に相談することにしました。JICA は主要な国際協力機関であり災害救済機関でもあるからです。しかし、そこでも復職についてのサポートをすることは出来ないと言われました。
これらの度重なる試練にも拘わらず、ただその日の食事を得ようと奮闘しながら、私は、このサイトを立ち上げるために時間をなるべく有効に使って、このベンゾジアゼピン問題に取り組み続けてきました。また、アシュトンマニュアル日本語版の翻訳の最終校正にも協力することができ、そのマニュアルは読売新聞でも取り上げられました。
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- 「寄せられたメッセージ」では、裁判の終了後に、知人が親切にも寄せてくれた励ましのメッセージをいくつか公開しています。
- 「感謝の気持ち」では、私を支えてくれた人たちに向けて、私から感謝の思いを伝えています。
- 「伝えたいこと」では、ベンゾジアゼピンに関する問題について、より注意喚起を促進させるために、私の考えを示しました。
- 読者からのメッセージ
- 「損失額、損害額に関する公的な記録」は、裁判所に提出した損害賠償請求書や領収書など公的な資料に基づいて、私の裁判において発生した実際の損失額、損害額を公開しています。
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一時避難宿泊所での時間を有効に使うために本の執筆を決意しました。小説風の散文体で、楽しんで読むことができ、しかも啓蒙的な意味合いのあるものにするべきだと思いました。
物語は読者を、とある旅に連れ出します。「外国人の目で見た日本」という背景を取り入れたいと思って、執筆しました。処方薬依存に陥り、閣僚的な法曹界に痛めつけられ、3.11東日本大震災、福島原子力発電所の事故に遭遇したこともリアルタイムで紹介し、瀕死の思いを味わうという場面を旅するものです。
既に3年と半年を費やして下書きを書き上げました。専門家の校正者、顧問弁護士、正規の出版社は高額の依頼料が生じてしまうので、今の所、自分で校正を試みている所です。
私の活動を理解し御支援下さる皆様一人一人のお心をとてもかけがえのないものと思っています。この活動の経済的な支援のため、皆様の寛大な御協力を是非ともお願いしたいと思います。心から皆様の御寄付を感謝いたします。何卒よろしくお願い申し上げます。
ご寄付はこちらをクリックしてください。
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世界ベンゾ注意喚起の日(2016年)
(日本での場面は、7:48、19:28 のところで映ります。)
2023
(2023年9月19日):厚生労働省において、ジス環境改善会代表の川島さんと一緒に面談に出席し、目的は、厚生労働省が公表した「重篤副作用疾患別対応マニュアル」(ベンゾジアゼピン受容体作動薬の治療薬依存)と題するマニュアルの改正と必要な行政措置を訴えること。
(2022年12月~2023年9月):ミハイラ ピーターソンからの依頼を受け、ベンゾジアゼピン処方薬の危険性についての記事作成。
(2023年7月):第8回の「世界ベンゾ注意喚起の日」。第7回の「世界ベンゾ注意喚起の日」の運営、W-BADユーチューブチャネルの再開。
(2020年4月13日):参議院会館の川田龍平の事務所において、薬害オンブズパースン会議代表の別府宏圀医師とジス環境改善会代表の川島さんと一緒に面談に出席し、目的は、厚生労働省が公表した「重篤副作用疾患別対応マニュアル」(ベンゾジアゼピン受容体作動薬の治療薬依存)と題するマニュアルの改正と必要な行政措置を訴えること。
2022年
(2022年7月):第7回の「世界ベンゾ注意喚起の日」。第7回の「世界ベンゾ注意喚起の日」の運営、町でのチラシ配布。
2021年
(2021年7月):第6回の「世界ベンゾ注意喚起の日」。第6回の「世界ベンゾ注意喚起の日」の企画として、同活動基盤の復活への実施(下記参照)。
2020~2022年
(2020~2022年):内部的な転覆による破壊を受け、丸2年間をかけ、「世界ベンゾ注意喚起の日」の復活・再建。
(2020年8月~2021年8月):最初一年間の復活作業のごく一部の例として、様々な改善提案書の提出をはじめ、「世界ベンゾ注意喚起の日」の経過記録書・事実確認書(1,227頁)および「世界ベンゾ注意喚起の日」の報告書(47頁)とその添付書類(25頁)、また関連書類10冊、ビデオアナウンス、世論調査などの大作業。
(2020年8月~2021年8月):「世界ベンゾ注意喚起の日」(W-BAD)のホームページの全面的な再建に努め、復元、リストラ、再び人間化を取り戻す努力、内容の再整理や更新や編集、また発展の可能性を高める企画の導入(上記最初一年間の復活作業およびホームページの再建にかけた丸2年間の作業中、わずか2日間の休みしか取らなかった)。(詳しくは再開の知らせをご覧ください)。
2020年
(2020年11月17日):政治家による宴会において、ベンゾジアゼピン処方薬物関連情報の提供(参加者:参議院川田龍平と奥様の堤未果(ジャーナリスト、国際的著作家)、元総理大臣菅直人、約100人の政治家、全国ベンゾジアゼピン薬害連絡協議会(BYA)の代表多田雅史、「精神医療の真実」の代表嶋田和子、約5人の薬害被害者)。
(2020年7月11日→ 8月11日):第5回の「世界ベンゾ注意喚起の日」。厚生労働省の陳情訪問への参加、また社会人による要望書提出。注:コロナの影響でこの第5回の陳情訪問が1ヶ月で延期され、参加者も5人に制限(詳しくはこちらをご覧ください)。
(2020年6月23日):予備企画として、町でのチラシ配布・投函、社会人による上記要望書への署名活動(詳しくはこちらをご覧ください)。
(2020年4月29日):集団訴訟の案件で、全国ベンゾジアゼピン薬害連絡協議会(BYA)への参加願望書(10頁)提出(この案件を引き受ける弁護団は出なかったため一時中止)。
2019~2020年
(2019年12月~ 2020年7月):下記の一連のビデオ動画の編集・投稿。
(2020年2月2日):れいわ新撰組街頭演説で撮影した動画(薬害について山本太郎への質問・訴え)の投稿。
(2020年5月31日):第5回の「世界ベンゾ注意喚起の日」の動きに繋がるよう「衆議院・参議院でのベンゾ情報ポスティング」(日本語版および英語版)というビデオ動画の投稿。
(2020年7月11日):第5回の「世界ベンゾ注意喚起の日」を記念するため行事内容の一環として、衆議院第一会館で撮影した動画(ベンゾジアゼピン系処方薬物勉強会)の投稿。
(2020年7月11日):第5回の「世界ベンゾ注意喚起の日」の仕上げとして、記者会見(衆議院で開催された「ベンゾジアゼピン系処方薬物勉強会」についてのQ&A)いうビデオ動画の投稿。
2019年
(2019年12月6日):国会(衆議院第一会館・第二会館および参議院会館)でのベンゾ情報ポスティング、当時の総理大臣(安倍晋三)の事務所(衆議院会館)をはじめ、713人の国会議員全員へのベンゾジアゼピン処方薬物関連情報ポスティングや「世界ベンゾ注意喚起の日」のチラシ配布、また有名な政治家との面談(詳しくはこちらをご覧ください)。
(2019年11月24日):れいわ新撰組街頭演説において薬害について山本太郎への質問・訴え、また「世界ベンゾ注意喚起の日」のチラシ配布。
(2019年11月7日):厚生労働省において、衆議院で開催された「ベンゾジアゼピン系処方薬物勉強会」についての記者会見への参加(東京都議員上田令子議員、井上眼科病院名誉院長若倉雅人教授、企画者の多田ゆり子も出席)。
(2019年11月7日):衆議院第一会館第一会議室で開催された「ベンゾジアゼピン系処方薬物勉強会」での発表(東京都議員上田令子議員、井上眼科病院名誉院長若倉雅人教授、企画者の多田ゆり子、その他の講演者、応援者、被害者、政治家なども出席)。
(2019年7月11日):第4回の「世界ベンゾ注意喚起の日」。被害者同士で厚生労働省の陳情訪問への参加、またその数週間前からのチラシ配布。
(2019年6月23日):予備企画として、地元のクラフトフェアでのチラシ配布や地元での投函(自分が追い込まれた状態の最中)。
2018年
(2018年7月11日):第3回の「世界ベンゾ注意喚起の日」。ニュージーランドのオークランド市内でのチラシ配布(詳しくはこちらをご覧ください)。
(2018年6月26日~):予備企画として、ニュージーランドのタラナキ地方においてコミュニティ(各公共団体や商店など)へのチラシ配布。
(2018年4月~7月):第3回の「世界ベンゾ注意喚起の日」の準備。
2017年
(2017年10月31日):薬害オンブズパースン会議の代表者らと一緒に、厚生労働省で開かれた記者会見への参加。
(2018年7月中旬):As Prescribed(ドキュメンタリー映画)への撮影場面提供(予告参照)。
(2017年7月11日):第2回の「世界ベンゾ注意喚起の日」。厚生労働省の陳情訪問の準備、当日の被害者同士による参加、その数週間前に亘るチラシ配布。
(2017年7月9日):予備企画として、松本市において500枚のチラシ配布(詳しくはこちらをご覧ください)。
(2017年3月21日):以下のとおり、国への要望書および2016年「世界ベンゾ注意喚起の日」の厚生労働省への陳情訪問の結果により、日本で処方されているベンゾジアゼピン系薬等44成分の添付文書改訂指示。
(2017年1月~7月):「世界ベンゾ注意喚起の日」の公式ホームページ作成の監督・調整、第2回「世界ベンゾ注意喚起の日」の準備。
2016年
(2016年7月28日 ~2021年12月1日):第1回「世界ベンゾ注意喚起の日」をまとめ上げるビデオ動画作成(上記ビデオ参照)。
(2016年7月11日):第1回の「世界ベンゾ注意喚起の日」。この世界的なイベントの総合運営、また厚生労働省において、被害者同士や政治家と一緒に、陳情不問への参加(上記ビデオ動画をご覧ください)。
(2016年6月27日):予備イベントとして、「W-BADチラシ配布作戦 in Shinjuku」という企画の準備のアシスト、また被害者同士や政治家と一緒に同イベントへの参加(上記ビデオ動画をご覧ください)。
2015~2016年
(2015年12月~2016年7月):世界ベンゾ注意喚起の日の設立。
(2015年4月):薬害オンブズパースン会議において、ベンゾジアゼピン系薬物に関する要望書の意見交換への参加(同要望書が2015年10月28日に関係各企業、厚生労働省、文部科学省、関連学会に提出され、ベンゾジアゼピン処方薬物がより厳重に管理するよう要求する内容)。
2014年
(2014年10月):第16回国際嗜癖医学会(International Society of Addiction Medicine: ISAM)年次総会の期間中、パシフィコ横浜会議センターにおいて、ベンゾジアゼピン系薬剤および類似薬剤の“不適切な処方”による危険性についての発表。
(2014年3月):少しでも参考になればと思って、私自身の経験やベンゾジアゼピン処方薬物関連情報を提供する当サイト(Benzo Case Japan)の設立。
2013年
(2013年中旬):臨床研究の対象者として、日本の医師たちとアシュトン教授による医学文献作成への準備・協力(作成中止)。
(2013年3月):日本の医師とアシュトン教授との間、情報交換サポート(他の医師に処方されたベンゾジアゼピン過剰投与により意識障害を起こした患者への対処方法について)。
(2013年1月):高齢者のマニュアルへのアクセスがより容易になるよう、アシュトンマニュアル日本語版の印刷出版を提供する許可交渉。
2012年
(2012年8月):讀賣新聞によるアシュトン教授への取材(Q&A)をコーディネート(取材は日本国内におけるベンゾジアゼピンが引き起こす諸問題についての啓発)。
(2012年中旬):アシュトンマニュアル日本語版の和訳へのアシスト(同マニュアルが2012年8月19日に一般公開)。
(2012年1月~現在に至る):作成中の本「アンダー・ザ・ライジング・サン」の執筆や編集。この本がアシュトン教授に推薦され、世界的名誉医師たちからの積極的なサポートも受け、またロンドンの出版会社にも高く評価された(詳しくはこちらをご覧ください)。
2003~2011年
(2003年2月~2011年10月):ベンゾジアゼピン処方薬物によって、私だけではなく多くの人々がいかに苦しめられているのかを理解してもらうようと、準備を入れておよそ10年間をかけ日本で(日本語で)最高裁まで裁判を進めた。私と代理人弁護士は、ベンゾジアゼピン系薬剤の危険性をより啓発し、また日本でより安全な処方ガイドラインが設置されるよう、本気で判例をつくってやろうと、この裁判を一所懸命に進めた(裁判のセクション参照)。
2000年中旬~
ベンゾジアゼピン処方薬物によって心身的にもひどく苦しまれる医原性損傷(すなわち依存症、離脱反応、副作用、有害作用、後遺症、一生の残る損害・損傷)を経験し(私のストーリー参照)、これが上記注意喚起活動への基盤を成すもの。
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親愛なるウェイン
この薬の危険性に関する情報を発信するため、あなたがしていることは素晴らしい。あなたの活動を通じ、多くの人が学ぶことを願っています。
ジム
ジム・ドビン下院議員
英国議会下院、ロンドン
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私が被った損害、またこれまでの注意喚起活動・ボランティア活動により、寄付金なしでは生活をこなすのは非常に困難になってきました。小額でも結構ですが、皆様のご寄付による暖かいご支援をよろしくお願い申し上げます。
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ベンゾ処方薬、不正な裁判、東日本大震災による損害を被って、その後、ボランティア活動(ベンゾ注意喚起)をしてきた私は、ほぼ20年の日本滞在の後、53歳になって、独りで何もなく切迫した状態に置かれました。
現金もない、貯金もない、財産もない、保証もない、家族もいない、周りには友達もいない、また自分の国に住む能力さえも失ってしまいました(日本で上記損害を被っていた間、ニュージーランドは高騰してバブル経済になり、ホームレスも多くなっていますのでまさにダブルパンチ)。
あると言えるのは、大きな仮金と作成中の本のみです。裁判からは正義が得られなく、何らかの賠償がない限り、生活できない私は必死になって、本を出版することによって、何とか被った損害を自ら埋め合わせようとしているところです。
2017年12月ごろ、母国のニュージーランドに帰国し、そこで本を完成させようと思いました。しかし、想定外なハプニングによってできませんでした。その当時、故郷から遠く離れたところ(周りには何もないところ)に居て、知らないうちに鬱に陥れました。
必死になった私は、日本での前の勤め先に復帰しようとしましたが、リストラ途中だったため、いろいろと複雑になって、4か月間の交渉が失敗で終わって、精神的に疲れ果てている状態になりました。その時のストレスがあまり酷いもので、3回も病院の緊急室で受診をすることになりました。
結局、同じ日本で違うところで就職が決まりましたが、鬱状態に悩まされていた私にとって年寄のお母さんをおいて出国することはあまり難しい判断で何回も考え直していた結果、お母さんが神経衰弱に陥ってしまいました。
お母さんは、脊椎の2箇所で有孔円盤があり、身体全体で慢性関節炎やその他の健康問題に悩まされ、心の状態はあまり不安定になったため、短時間の訪問を除いて、実家では息子になる私を含めて他人を受け入れることができません。
そのお母さんですが、私と弟を養子として迎え、まもなく自分の母親を亡くして、育てのお父さんと離婚しました。その後は、大変苦労して、23歳になった私が成人教育制度により大学で日本語学習ができるようにサポートしてくれました。
当時、学費ローンも組んでいましたが、その不足部分やその間の生活費を補うために、お母さんが退職後の蓄を使って様々な費用を払ってくれました。しかし、その努力にも関わらず、上記の損害によりすべてがただの悔やみや孤独さ、また困窮で終わりました。
お母さんが神経衰弱に陥った直後、お母さんの友人からメールを受け、「2度と連絡するな」という内容でした。その結果、今の私は何もない状態で遠くの日本で独りになってしまい、お母さんの安否も確認する方法はない。
現状況
- 母国で住む能力を失い、諏訪で独りになり、大変切迫した状態。
- 自分の居場所はもうなくなり、生活基盤はなく、自分の家族もない。
- 生きている親戚はあと3人しか残っていなく、みんなは様々な健康問題を抱えて80歳を超えているので、今回私は母国に帰ったら誰もいなく、何もない状態になってしまう可能性が高い。
- この20年、日本で連続の辛い経験をさらされてきた私はいつも独りになるので、クリスマスや誕生日は孤独さを拡大するものになり、特につらいです。
- 私はいつも他の人たち(家族や友達)に囲まれているのが好きな性格ですので、孤独さは耐え難いものです。
- 今の私は、人生へのダメージによる鬱、自分の国と違う国において独りで切迫した生活を余儀なくされたことによるストレス、また将来についての不安に悩まされ希望を失うほどつらいです。
- お母さんは退職後の蓄を使って、日本語学習の関連費用を貸してくれましたが、日本での状況により返金をすることができなくて罪悪感に悩まされ、お母さんの定年も大変になりました。
- 仮金に圧倒されています。
- 53歳になって、将来の見通しがなく、再び日本でゼロからやり直しすることになり、孤独でとてもつらいです。
- 自分が設立した「ベンゾ注意喚起の日」(2019年)に参加するために、近くの教会を回ってカンパ(交通費など)をお願いせざるを得ませんでした。
- 53歳になった私は主労できる年数が少なくなってきて、不安です。
- 今回は、日本でのいわゆる一時的な(避難?)を容疑なくされましたが、ニュージーランドに帰国した時の年金を該当しないとの心配・不安も抱えています。
- 日本の裁判は薬害に対して損害賠償を認めるどころか、不正な裁判で終わり、さらなる損害だけをさせられましたので、本を執筆して出版することにより、自分で賠償を稼ぐ他はない状況に置かれました。しかし、これも決して確実ではなく、さらに残っている人生もダメになる可能性もあります。必死です。
- 人生は1回しかないですが、貴重な時間が奪われたことを痛感しています。家族の集まり、誕生日祝いなどすべてを逃がしてしまい、葬式さえも参列することができておらず、独りで嘆くことになり寂しいです。
- このままだと、結局は、独りで年を取ってみんなに忘れてしまう恐れがある。
- この状況になったのは私のチョイスだと言う人もいます。しかし、医原性薬害や不正な裁判は私のチョイスではありませんでした。なるほど、その後の注意喚起活動は私のチョイスでしたが、自分のベンゾ薬害体験はあまり酷いもので、何もせずにいられませんでした。
- 本を完成させ、年寄のお母さんは完全に不自由状態になっていないうちに、ニュージーランドに帰国したいと思いました(その前の10年間はずっと会えなかった)。何とか自分の人生を取り戻し、お母さんとの貴重な時間を過して、そしてより落ち着いた生活を送ることにより、大好きなお母さんが亡くなられたら私がその最もつらい時期を何とか対処できるようにしておきたいと思いました(特に、私には他の親戚がいないからです)。
注:私の本はアシュトン教授に推薦されました。下書きに対するアシュトン教授からの尽力は、同教授の長い名高いキャリアの中で最後の仕事になり、この本も世界的なレベルでさらなる注意喚起を引き起こす目的です。
ご協力ください
振り返ってみると、日本で相次いだ多大な損害を被った私はその後のボランティア活動(注意喚起活動)により、無理背伸びをして、今の人生は大変切迫しており本もなかなか進まないです。
今は大変切迫した状態にあり、自分のサヴァイヴァルまた本を完成させるため、少しでもご支援・ご寄付をしていただければ助かります。
ご支援・ご寄付
皆様のご寄付による暖かいご支援をよろしくお願い申し上げます。お振込みによるご寄付については、こちらをクリックして口座番号をご確認下さい。
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当サイトは、医原性ベンゾジアゼピン薬物依存症(中毒)の注意喚起、また、医療訴訟の問題について知っていただくために、個人的に作成したものです。
当サイトには報復的な目的は一切ありません。また、プライバシー保護のため、当サイトに掲載される公的資料からは、被告人またはその他関係者の名前は削除されています。
当サイトには私以外に関係する個人や団体は無く、また、特定の組織や社会運動を代表するものでも一切ありません。
当サイトは医療的あるいは法的な助言を目的としたものではありません(免責条項参照)。
裁判という究極のストレスに悩まされるチャレンジにおいて、私はいつもラグビーNZ代表のオールブラックス、とりわけキャプテンのリッチー・マコウ(Richie McCaw)からインスピレーションを得て、それを活かしていました。
状況がどんなに厳しくなろうと、どんなに不当に扱われようと、彼らが不平を言うことは決してなく、ただただ前進していくのです。
素晴らしい!
There were many challenges in my case.
These included fighting a world famous doctor in another country and language, acting as go-between for a harsh natured Japanese speaking lawyer and a sensitive natured English speaking doctor, making my Supreme Court Appeal whilst evacuating from Fukushima etc during the 3/11 disaster etc…
多くの人から、最高裁判所まで闘った理由やこのウェブサイトを作成するに至った動機について尋ねられます。
まず裁判については、私はただ単に「このような結果がもたらされる治療は有り得ない」と感じたのです。人が病院に行って、このように苦しむべきではありません。また、現在の医療界には、私だけでなく多くの人たちに影響を及ぼしている大きな問題が存在することを知りました。この問題について当局に注目してもらう必要があり、医師側も責任を問われる必要があると考え、裁判を闘ったのです。
このウェブサイトに関しては、処方薬中毒とはどのようなものかを知り、そして、この薬が社会全体に影響を及ぼしていることに気付いたことで、他の人が同じ目に遇い苦しむことのないよう何かをしなければと感じたのです。そこで、当サイトを立ち上げることにしました。
このウエブサイトの左上に私の信条が掲げてあります。裁判を起こして活動をやり続けてきた私はクレジーだと思った人が多くいました。
しかしながら、私たちは二つの選択肢を持っている「何かをすることを選ぶ」か「何もしないことを選ぶ」-多くの人々に希望を持って生きることを与えるのはどちらでしょう?その選択権は私たちの手の中に…
It seems the truths about the potential dangers of benzodiazepines are slowly coming out but with so many cases of prescription dependency worldwide there is clearly a long way to go.
Also, in my experience it appears as if dependency to prescription drugs leans toward a subject of taboo – almost as if society is succumbing to it.
However, is keeping these problems locked up in the closet going to help anyone or change anything?
At first it was difficult sharing my case and story online because it necessitated disclosing personal information, however, I felt the need to come out and help raise awareness outweighed this…
You may be interested to see the notes on corrections of Japanese translation errors, which were contained in the dependency medical report translations, together with explanations of the nature of these errors, and consider their potential implications on the case.
This is very interesting!
What worked well?
What didn't work so well?
For the interest of the reader, in this site I have given feedback on what worked well in my case and what could have been done better.
In my case, “confusion” appeared to be the main tactic of choice employed by the defense.
Enter the term “Autonomic Nervous Disorder” (The Perfect Smokescreen).
What are benzos for again?
The only time I’ve ever needed to visit a psychologist in my life was AFTER (wrongfully) being prescribed benzodiazepines…
I went from being barely able to walk when I was on benzodiazepines to being able to squat 180kgs following abstinence and rehabilitation.
最も驚いたことは、高裁が、中毒を引き起こすとみなされるベンゾジアゼピンの用量を決める際、製薬会社が作成した添付文書に信用を置いたことであった。
「負けた気がしません。私は勝ち、裁判所が負けたと感じています。彼らは医師たちを守る一方、社会を守り損なったように思えます。私がやりたいことは、私の経験を紹介したり、裁判を通して集めた資料を使ったりして、依存患者や依存に陥る可能性のある人たちのために情報を提供することです」
当裁判に要した諸経費並びに薬害によって生じた損失、損害に関しましては、損失額・損害額に関する公的な記録 をご覧ください。
また、原告の第2陳述書では、私は個人的に経験した問題をご覧いただけます。
This section shows a variety of other benzodiazepine related videos that may be of interest.
When do you suppose my condition was at its worst?
- When I was experiencing moderate levels of work related stress?
- When I was working a high pressure job and involved in a rigorous court battle in another country and language against a world famous doctor, the hospital, and the teams of lawyers and entire networks that no doubt sat behind them?
The answer is A.
Why?
Because at the time of situation (B) above, I wasn’t being mislead by a doctor feeding me a cocktail of highly addictive prescription drugs.
Instead I was employing the use of practical (non-drug) stress management techniques learnt in New Zealand before I returned to proceed with litigation in Japan.
Same principles applied to coping with the affects of the 3-11 disaster...
「服用期間中であっても(たとえ薬を飲み続けていたとしても)離脱症状が起きる可能性はある」私と弁護士が裏づけのある論文を必死で探していた時に、アシュトン博士との初めての出会いがありました。
博士には、その後も、要となる情報だけでなく、その他の役に立つ情報もあわせて頂いております。
私たちはそれ以降も緊密な連絡を取り続け、手がつけられないほど広がってしまったこの「社会問題」に注意喚起をする努力をしてきました。
アシュトンマニュアルの日本語訳の協力もそのひとつです。
興味を持っていただけそうなベンゾジアゼピン関連のニュース動画をいくつか紹介しています。
Throughout this entire ordeal, I came to realize the importance of “Balance”.
As pressing as the court deadlines were and as demanding as the case was, without maintaining a balance in life including rest, recreation, work, socializing, diet, sleep etc. it would have been impossible to sustain.
However, it was always a razor edge fine line between making progress and maintaining health and balance.
Subsequently, it took a lot of skill and adapting.
このセクションでは、私が闘った日本の裁判についてお話します。特にそこで現れた、明らかに不当な処置と思われる事例のかずかずを紹介します。これらの事例をわかりやすくお伝えするために、「東京高等裁判所の判決」と「中毒治療科の報告書」への参照箇所(リンク)がいくつか出てくるので是非ご参考ください。また、「中毒治療科報告書」は、一貫して、法的証拠およびDSM-IV-TRの依存症診断基準に基づいて書かれていることにもご留意ください。
A doctor that took the time to listen…
Whilst residing in state housing in Nagano, as an evacuee from Fukushima, I consulted a local ENT about ear pain from overuse of earplugs.
As we got talking he learned of my situation with regards to being displaced by the 3/11 disaster and Fukushima nuclear accident.
As a result, he also learned that I was under some stress.
However, instead of labeling me with some fancy diagnostic term and prescribing me drugs, he sat down and we discussed possible solutions as to how to I might be able to relocate, get my job back, etc.
He did this after his surgery had closed over a cup of tea – what a great doctor and what a great guy!
It was difficult to get any relief from the ongoing symptoms
Unlike injuries where you may get some relief from adjusting your posture etc, with drug dependency in my case, the pain was both mental and physical and ran 24/7 regardless…
(Partial Reference: benzo.org.uk)
Journalists have regularly exposed the Benzodiazepine Scandal with stories of celebrity deaths attributed to benzo use as well as the blighted lives of ordinary people.
Benzodiazepines were, by all accounts, implicated in the deaths of:
- Elvis Presley
- Paula Yates
- Michael Jackson
- Heath Ledger
- Brittany Murphy
- Amy Winehouse
- DJ AM (a.k.a. Adam Goldstein)
- Anna Nicole Smith
- Margaux Hemingway
- Don Simpson
- David Foster Wallace
- Whitney Houston
How anti-anxiety meds are killing celebrities
It used to be that hard drugs were the cause of celebrity overdoses…Of the celebrities who have overdosed on drugs in the past five years, eight appear to have taken prescription medications — specifically, a mix involving easily accessible anti-anxiety medications known as benzodiazepines or “benzos.”
「このベンゾジアゼピン処方依存の問題は深刻である。ベンゾジアゼピン依存に苦し
英国首相 デイヴィッド・キャメロン
2013年10月23日