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原告 第1陳述書

注 記

この陳述書は、元々私が自力で日本語で書いたもので、後から弁護士がチェックしました。

 

 

 

陳述書

平成20年1月21日

 

 

(住所) xx xxxx・xxxxx・xxxx 町xxxxxx 市 xxxx 県ニュージーランド

(署名)            

 


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1 私の身上(私と日本との関わり合い)

私は,ニュージーランドに国籍を有する1966年(昭和41年)9月9日生の白人男性です(甲C7号証)。以下,私が知ることを包み隠さず,ありのままに陳述いたします。

私は,平成4年に,日本語学習成績優秀者ニュージーランド代表として,2週間の研修参加のため初来日し,2年後の平成6年,名古屋の英会話学校の英語講師として1年間勤務し,さらに1年後の平成8年8月より平成10年7月まで宮崎県北方町役場国際交流担当として2年間の勤務をしました(3回目の来日,甲C13号証)。

その後,ニュージーランドに帰国して在ニュージーランド日本総領事館で臨時の仕事をしましたが,平成11年5月,私はこの先,ずっと日本で仕事をしていこうと決心し,4度目の来日をして,静岡県沼津市の英会話学校で英会話学校の英語講師として1年間勤務し,平成12年3月末,財団法人埼玉県国際交流協会に転職し,元来,同協会で勤務し続ける予定でした(甲C3号証)。このように私は,10年以上に亘り,日本とニュージーランドを中心とする国際交流のために貢献しました(甲C13号証)。

しかし,本件の結果,平成13年3月ニュージーランドに帰国を余儀なくされ,体調を回復した現在も,パニック発作(突然,自分が気が狂いそうな激しい不安に襲われ,居ても立ってもいられなくなり,自分が今講師として授業をしている最中でも,教室から外へ走り出すなどの発作)や慢性的な抑うつ・不安などに悩まされています(甲A18号証の1及び3。)。


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2 平成11年5月,当時私は健康でした

私は,同月18日,静岡県沼津市の英会話学校で英会話講師として働くために来日した当時,健康状態は良好でした。当時の私は,人に親しまれるいきいきとした性格で,肉体的にも健康だったのです。もちろん,X医師による治療を受け始めた初診時を含め,それ以前,パニック発作などの精神不安を訴えることはありませんでした(甲A1,乙A1の平成12年6月30日付の記載)。


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3 平成12年5月11日,めまいとORC病院受診

(1) 平成12年3月末,財団法人埼玉県国際交流協会に転職

同月末,私は,財団法人埼玉県国際交流協会に転職しました。同年4月下旬頃,私は,若干の疲労感を覚えましたが,近所の医院に行って検査を受けると,特段の異常はないということであったので,勤務を通常通り続けていました。

(2) 同年5月11日,回転性めまいの発作とORC病院受診

同日午前2時ころ,私は,めまいの発作で突然目覚めました。目の前がグルグル回る感じで,部屋が時計回りにグルグル回っていたようでした。このような回転性めまいは,私は初めて経験するもので,しかも,この1回きりで,以後,回転性めまいは発現しませんでした。また,めまいだけでなく,発熱,嘔吐も有り,歩行にも非常な困難を伴いました(これらの症状は,その後1週間程度持続しました。)。

そこで,同日の朝,私は,職場の課長の勧めで,タクシーを自宅まで呼んで,ORC病院(現「STRC病院」)にて,耳鼻科,内科,神経科の各検査を受けました。同月15日朝,今度は,目の前がフワフワするような,グラグラするようなめまいの発作に襲われました。

回転性めまい発作を起こして数日,持続的めまい(回転性ではない),ふらつき,嘔気,周りが左右に揺れている感じ,酔っ払っているような感じ,頭と体が揺れている感じなどの症状がありました。歩行時に左へ偏りがちで,左へ誰かに押されている感じ(特に座っている時)がしました。また,歩行時は回りの様子がビデオカメラのファインダーから見ている感じもしました。

(3) 平成12年5月16日,ORC病院での処方

同月16日,ORC病院の内科検査の結果が出ましたが,異常はないということで,ORC病院で処方された内服薬も服用して,栄養と睡眠も十分にとるようにしました。

(4) 平成12年6月,ORC病院での受診の終了とX医師への紹介

同月頃,私の平衡感覚はゆるやかに回復しつつあったけれども,まだ完全に正常な状態ではなく,フワフワするような,グラグラするようなめまいが残っていました。同月,テレビでX医師がめまいの国際的権威者として紹介されているドキュメンタリーを見て,私は,同月26日,ORC病院の神経内科医K博正医師に,今回の事件の被告であるX医師を紹介して頂きました。


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4 被告Xによる被告Sクリニックでの受診から帰国まで

(1) 平成12年6月30日 - 第1診察 - 

ア 症状リストの提出と診察

平成12年6月30日,初回目の診察にあたり,私は,念のために私の症状のリストを書いて,それをX医師に手渡しました。(私は,日本語に不自由したことはありませんが,外国人ですし,正確に自分の症状を伝えるために,診察時はほとんど毎回,X医師に症状のリストを渡していました。X医師は,必ずしもちゃんと読んでくれず,コピーさえ取らないことが多かったです。)。

なお,この日私がX医師に渡したメモは,乙A1号証の11頁~12頁のワープロ作成のメモだけでなく,13頁の手書きのメモも渡したとの記憶です。乙A1の13頁のメモには「12.7.5」と後で間違って被告Xが書き入れたのではないかと思います。いずれにしても,「12.7.5」の部分は,私が書き入れたものではありません。

イ X医師の診断

X医師は,私をSylvian Aqueduct Syndrome(SLAS) と診断しました(鑑別診断,甲A3号証の3頁)。X医師は,このSLASを治すには薬剤によって私の体質を変える必要があると言いました。処方内服は"drug cocktail(多剤併用療法)"になるとX医師は説明し,これは "Conservative" (保存療法)ではなく,"Radical Approach"(根治療法)だということでした。

ウ X医師による処方の説明の欠如

X医師の説明では,服用を開始してから,約4ヶ月以内には回復するということでした。しかし,薬の性質の説明は,ありませんでした。私は念のため,副作用があるかどうかX医師に訊いたところ,X医師は,「どんな薬でも副作用はあるが,この薬剤は(X医師が処方する量の場合)中毒性はなく,副作用もあまりないので,安心して長い期間飲んでも問題ない。」ということでした。この時は,診察のみで帰りました。

(2) 平成12年7月5日 - 第2診察 - (処方内服の開始)

X医師は,コントール15mg,グランダキシン1.5g,クロナゼパム0.9mg,ケタス3カプセル,アプレース1.5g,トフラニール10mgを14日分処方してくれました(甲A2号証カルテの2頁の左半分,甲A9号証,乙A1号証)。その際,ベンゾジアゼピンが常用量(通常の処方量)服用で中毒となり得る危険性について,何の説明もしてくれませんでした。

これらの薬にはベンゾジアゼピンが含まれていますが,マイケル・J・ウィットウェル医師に聞くまで,私はベンゾジアゼピンが中毒性があることにつき無知でしたので(甲A7号証の2頁目),私はX医師の診断と処方を信じて,平成12年7月5日より処方内服を開始し,平成13年1月23日までの203日間,X医師処方の薬を飲み続けました(甲A2号証,甲A9号証)。

(3) 平成12年7月19日 - 第3診察 - (治療開始2週間後・回復期)

薬剤治療の開始後,最初の数週間は,めまいの症状は落ち着き,軽くなりました。私は,うれしくて,X医師を信頼して薬を飲んで行けばよくなると確信していました。平成12年7月19日の診察では,X医師が,「症状は少しよくなったかね。」と訊きましたので,「はい,落ち着きました。ありがとうございます。これも,先生のおかげです。」と答えました。その上で,X医師は,私に,前回と同様にベンゾジアゼピンを処方(甲A2号証)しました。この時も中毒となりうる危険については一切説明して頂けませんでした。

(4) 平成12年8月4日 - 第4診察 - (改善も悪化もない時期)

平成12年8月4日の診断では,X医師は,「症状はよくなっているかね。」と訊きました。それに対して,私は,平成12年7月下旬は,体調は当初よりは良くなったものの,その後はあまり変わりはなかったので,「前回の診察(平成12年7月19日)からはあまり変わりはありません。」と答えました。X医師は私に,「めまい発作の防止をする。薬はすぐには効かないが徐々に効いて来る。」というメモを手渡してくれました。

(5) 平成12年8月21日 - 第5診察- (ぶり返し,新しい症状の発症)

ア ぶり返し,新しい症状の発症

平成12年8月21日のX医師の診察の時点では,一旦軽くなっていた症状がぶり返し,さらに,新しい症状を生じた感じがしていました。そこで,私はX医師に,「ふらつき持続,だるさ・疲労,息苦しさ・動悸,目が泳いでいる感じ,足が弱い感じ,ふらふらする,夏ばて,ストレスと疲れ,肩こり,痔の悪化,口の中の潰瘍,食欲がなくなった。」(甲A12の1)とのリストを手渡して,「症状がぶり返して来ました。新しい症状も出て来た気がします。」と訴えました。

イ X医師の処方

これに対して,X医師は,「君はもっと食べなければいけない。」とか「入浴直後に冷たい水を飲んではだめだ。」と言ったり,「最近の悪天候によって君の調子が悪化した。」と言ったりしただけで,従来の治療を続け,それまでどおり,ベンゾジアゼピンを処方しました。症状のぶり返しと新しい症状の発症にもかかわらず,ベンゾジアゼピンが常用量服用で中毒となり得る危険性については,何も言われませんでした。

(6) 平成12年9月18日 - 第6診察 - (体調の悪化)

平成12年9月18日になっても,私の体調は戻らず,むしろ悪化しているようでした。そこで,私はX医師に,「体調は戻っていません。むしろ,前回(平成12年8月21日)訴えた新しい症状が悪化しています。」と言いました。この時も,ベンゾジアゼピンをX医師は処方しました。ベンゾジアゼピンが常用量服用で中毒となり得る危険性については,彼は,何も言いませんでした。

(7) 平成12年10月20日 - 第7診察 - (体調のさらなる悪化,パニック発作,抑うつ・不安)

ア 体調のさらなる悪化,パニック発作,抑うつ・不安

当初,X医師が回復するに必要だと言っていた,4ヶ月近く経っても回復できず,むしろ私の調子はどんどん悪化していきました。というのも,心悸亢進,胸部の圧迫感,ほてり,腹痛,手やこめかみのしびれ,視覚障害,食欲不振,情緒不安定(抑うつ・不安,パニック発作)などに執拗に悩まされるようになったのです。

これらの症状のうち,視覚障害・食欲不振・情緒不安定を除く症状は,X医師のところで受診して投薬治療を受ける前には,激しいめまいの発作に悩まされていた時期でさえ,無かった症状でした。

また,視覚障害・食欲不振・情緒不安定の内容も,X医師を受診する以前と比べて,性質・程度が異なったものになりました。視覚障害については,光過敏が強まったし,食欲不振についても,以前には無かった,慢性的に口が渇き,味覚異常が有るなどの症状が顕れ,情緒不安定に至っては,慢性的な抑うつ・不安がある他,突然,自分が今にも気が狂うのではないかという激しい不安(パニック発作)に取り憑かれるなどしました。

この激しい不安(パニック発作)は,何時私を襲って来るか分からなかったのです。これは,この時はじめて私に出現したものですが,いまだに私に残っています。しかし,このパニック発作についてだけは,X医師に言いませんでした。精神病と診断されて,異国で精神病院に強制的に入れられて,2度と出て来られなくなるかも知れないと怖くてたまらなかったからです。このような強度の不安は,X先生のところで受診して投薬治療を受ける前は,全く無かったのです。

イ 従来通りの治療の継続

私は,X医師に,これまで以上にもっと強く「体調がどんどん悪化しています。」と訴えました。しかし,X医師は治療方法を見直すことはせず,ベンゾジアゼピンを引き続き処方しました。このときも,彼は,ベンゾジアゼピンが常用量服用で中毒となり得る危険性については,何も言いませんでした。

(8) 平成12年11月24日 - 第8診察 - (「100%である」との診断)

平成12年11月24日の診察では,X医師は検査(主に眼の検査)を行った結果,私の体調を「100%である」「結果として完全に回復している。」(甲A2号証)と言いました。しかし,当時の私の体調は,X医師にかかりはじめた頃の症状も,完全にぶり返し,もっと悪化しており,その後に生じた症状も悪化していました(甲A6号証カルテの8頁,「平衡神経科に通っていた。あまりはかばかしくない」)。

(9) 平成12年11月末ころ(服用中止の試みと挫折)

平成12年11月末ころ,私は,X医師に対して不信感を抱くようになっていたので,X医師の処方する内服薬の服用を中止しようと試みました。しかし,薬の一回分でさえ飲まずにはいられなかった為,結局は処方された通り薬を飲み続けました(第1回目の服用中止の試み)。私の体調はますます悪化し,混乱および情緒不安定な状態は顕著になり,パニック発作のため,自分がなすべき仕事をちゃんと行うことができなくなり,周囲からは奇異の目で見られ,気分も落ち込み,自殺を考えはじめる始末でした。

(10) 平成12年12月21日,Oセンターでの受診

平成12年12月13日,私はX医師による治療に多大な疑義を抱くことを抑え得ず,X医師に受診する前に診てもらっていたORC病院に行き,同院のK博正医師に,新たな転院先を紹介してもらいました。K医師は,「自律神経失調症,前庭機能障害の疑い有り。」との診断で,Oセンターの心療科M医師に対する紹介状を書いてくれました(甲A5号証)。

平成12年12月21日,私は,K医師が書いてくれた紹介状を持ってOセンターに行きました。M医師は,私を診察し,「自律神経失調症,神経症」との診断をしました(甲A6号証)。私は,すぐにはM医師のもとでの治療ははじめず,それまでX医師に処方されていた薬剤をM医師に告げて,「飲んでいても苦しいのですが,飲むのを止めると体調がますます悪くなるのです。」と伝えました。

(11) 平成12年12月25日 - 第9診察 - (最終診察)

平成12年12月25日,私はX医師による最後の診察を受けました。私は,どんどん悪くなって行く一方の体調で,新しい症状のリスト(平成12年12月18日付)をX医師に手渡しました(乙A1の29頁)。

この「新しい症状」の内容は,「耳鳴り」,「10月から,眼球の水晶体に傷が出来ているように見えること」,「熱に対する敏感さの発現」,「普段より高い脈拍数」です。(X医師も,乙A1の18頁(平成12年12月25日付)に,「耳鳴,飛蚊症,動悸,熱っぽい」と,私のリストに対応した記載をしています。)。この時もX医師は「ああ,大丈夫だよ。すべて順調だから心配することはない。」と答えました。

回復に必要だといわれた4ヶ月を2ヶ月超した時点で,私の体調は回復せず初回受診時よりも悪化していたにもかかわらず,X医師は「すべて大丈夫だ。」とか「すべてが順調だ。」と言い続けていたのです。

私は,X医師に,今日の診察で最後にすると知らせました。すると,X医師は,「ウェインは100人の医師のうち1人しか治療ができないとても珍しい病状を持っている。もし薬物療法を止めてニュージーランドに帰国すれば回復できない。」と,あくまで彼の処方する薬物療法を続けるよう言いました。

そして,最終受診であり,もう,私の状況を把握できないにもかかわらず,従来通りの薬剤を,30日分処方したのです(甲A2,甲A9最終頁)。私は,もはや薬剤の服用を中止することができず,結局,処方された薬剤が尽きる平成13年1月23日まで服用し続けてしまいました。

私は,ニュージーランドに帰国するので,今後の治療のために薬剤についての情報を提供してほしいとX医師に看護師を通じて頼みました。看護師は,了承し,X医師の部屋に入って行きましたが,戻って来た時は,不機嫌そうで,私に,不機嫌さをあらわにして,「X先生は,『私のやっていることは,あんたに関係ない。』と言っています。」と言い,薬剤についての情報を私に教えてくれることができませんでした。

なお,甲A12の2には,乙A1の29頁にはない「火照り」,「性欲低下」,「もうろう」,「胸部への圧迫感」,「胃痛」,「食欲減少」等が,「新しい症状」として書いてありますが,X医師が私が口頭で症状を訴えても聞いてくれなかったので,診察直後に私が備忘録として追記したものではないかと推測します(記憶がありません。)。これについては,Oセンターには提出しています。

(12) 平成13年1月22日(被告Xの処方薬がなくなったこととOセンターでの再投薬)

平成13年1月22日,OセンターでM医師の治療を開始しました。X医師の処方した薬は,その次の日でなくなる見込でした。M医師は,私の内服の量を減らしてもっと簡単な処方をしました。その新しい投薬の内容はリボトリール0.4mg,コンスタン0.4mgを1日3回服用するもので,平成13年2月7日,同年3月2日にも処方されました(甲A6号証)。

同年3月2日には,私は同月25日に帰国する気持ちでいましたので,M医師に頼んで薬をいつもより多くもらいました。M医師は薬の説明書(平成13年1月22日付)に,「3月1日より量を1日2回に減らすこと」と書きましたが,その時も服用を減らすことができず,結局,ニュージーランドに帰国した時まで処方内服を1日3回服用し続けました(第2回目の服用中止の試み)。

(13) 平成13年4月9日,帰国後の漸減療法の開始

平成13年3月26日,私は母国ニュージーランドに帰国しました。帰国後,もう一度,M医師のアドバイスに従って,処方内服を減らそうとしましたが,その時も失敗しました(第3回目の服用中止の試み)。そして,平成13年4月9日,マイケル・J・ウィットウェル医師の下で,漸減療法を開始したのです。


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5 平成12年11月初旬から平成13年帰国時に私の体調が悪かったこと

(1) 帰国前の私の体調が悪かったこと

やや時間が遡りますが,お許し下さい。

ア 平成12年11月初旬(友人の心配が深まる,勤務態勢の変更)

平成12年11月初旬,私と会った2人の友人は,口を揃えて,私がそれ以前の私と全く違ってしまって,非常に病的に見えた(甲A14号証の赤線部,甲A15号証の赤線部)と言いました。

また,友達によると,そのころの私は以前と違って人に攻撃的で,異常に喧嘩っ早くなっており,川越のカフェで他のお客さんに失礼なことを言ったこともありました。職場である埼玉県国際交流協会の上司も,私の体調に配慮して,特別に1時間ごとに休憩を入れる軽い業務に就く勤務体制を設けてくれました。

イ 平成12年12月末(恋人から痩せこけた姿に驚かれる)

平成12年12月末は,私は岡山に住んでいる恋人(K)のところに休養に行きました。彼女は私の痩せこけた姿を見て,とても驚きました。Kは,私の顔色の悪さ,食欲の無さ,目がくぼんだ様,頭の血管が浮き出ていて,いつも眉間にシワを寄せ,疲れ切ったという様子を心配してくれました。実際,私は,夜は寝つきが悪く,毛布を掛けたり蹴ったりしました。Kと,性交しようとしても,できませんでした。それ以前は,そんなことは無かったのです。

ウ 平成12年12月21日(Oセンター受診時)

既に述べた通り,私は,X医師の治療を受けている最中である平成12年12月21日,Oセンターに行きました。当時の私は,「めまい,ふらつき,息苦しさ,だるい,疲労,足の力が抜けたような感じがする,首や背中の筋肉痛,嘔気(時々),眼がちかちかする,眼球の水晶体に傷ができているように見える,いつもより頭が強く脈うつ感じ(特に寝ている時),頭がフワッとする,平衡感覚低下,肩こり,静脈洞には圧力がある,口のかいようができやすい,じができている,手の平は異上の汗が出る」(甲A6の2頁目)という状態でした。

なお,「口のかいようができやすい,じができている,手の平は異上の汗が出る」というのは,「口に潰瘍ができやすい,痔ができている,手の平に異常な量の汗が出る」という意味です。

(2) 平成13年3月25日,帰国直後の私の体調が悪かったこと

平成13年3月25日,私がタラナキ空港に着いた時,出迎えた母は私のことを見間違えて,「半分死んでいる痩せたゾンビに見える」と悲しそうに言いました(甲C4号証の3頁目)。

(3) 平成13年4月9日,マイケル・J・ウィットウェル医師の受診

平成13年4月9日,地元の内科であるマイケル・J・ウィットウェル医師に診察を受けました。同内科は,私のいた実家から100メートルほどの距離ですが,私は100メートルも歩ける状態ではなかった為,母が車で連れて行ってくれました。私は,ニュージーランド帰国直後の時点で,M医師から処方されたリボトリールを1回0.4mgと,コンスタンを1回0.4mg,1日3回服用していました(甲A7号証)。

同医師によれば,日本で処方されたベンゾジアゼピンは大変中毒性の強い薬であり,私をベンゾジアゼピンの中毒であると診断しました。私は,この時はじめてX医師が処方していたベンゾジアゼピンは中毒性のものであることを知りました。

ウィットウェル医師は,ベンゾジアゼピンの治療として,いきなり服用を止めると,症状の悪化が有るため,注意深い観察をしつつ,ベンゾジアゼピンの服用量を少しずつ減らす漸減療法を行うことを提案し,私に,リボトリール(クロナゼパム)1回0.5mg,1日2回の処方をしました(甲A8号証)。その上で,タラナキ病院附属アルコール・薬物依存症患者治療センターに私を紹介してくれました(甲A7号証の2頁)。

(4) 平成13年4月19日,ジャドスン医師の受診

平成13年4月19日私はタラナキ病院附属アルコール・薬物依存症患者治療センターで,ジャドスン医師に受診しました。ジャドスン医師も,私はベンゾジアゼピン慢性中毒であると診断しました(甲A8号証)。

ジャドスン医師は,X医師が処方していた薬は,主に不安やストレスのために飲むものであるが,非常に中毒性の強いもので,周知の副作用もかなりある中毒性があると,教えてくれました。

また,内服薬を急に止めるのは危ないこと,食べ物によって禁断症状を和らげるなどの生活習慣を改めることなどのアドバイスをしてくれました。X医師は上記のようなアドバイスを一切してくれず,投薬についての説明もありませんでした。

私は,ウィットウェル医師を掛かり付け医として,タラナキ病院附属アルコール・薬物依存症患者治療センターへ通院し治療を受けました(甲A8号証,甲A7号証)。


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6 薬物からの脱却とパニック発作などを残しての回復

(1) 平成13年4月30日,ジャドスン医師との定期診察

平成13年4月30日,ジャドスン医師との定期診察が行われ,クロナゼパムの服用量は0.5mgの錠剤を1日1回(朝のみ服用,1回0.5錠)に減らしました。

(2) 平成13年5月5日,服用の終了

平成13年5月5日,私は,ベンゾジアゼピンの服用をやめました。内服薬減量期間中,また内服薬を完全に絶ってからの数か月間,私は,パニック発作,抑うつ,不安,イライラ,攻撃的反応,他人を攻撃するのではないかという恐怖感などの症状に苦しみました。平成13年10月ころから,体調が徐々に良くなって来ました。

平成13年12月12日に,恋人のKが日本からニュージーランドに会いに来てくれた時は,X医師の内服処方を受けていた平成13年2月ころと比べて,私の体重が増え,顔色も良くなり,全く別人のように健康的に見えると笑顔で言ってくれました。

それでも,私は,やはり体調はよくなり切っておらず,わざわざニュージーランドまで来てくれたKに対して,あろうことか,「Kが女に見えない。Kの裸を見ても,勃たないよ。」などと口走り(私としては,Kを侮辱する意図はなくて,ただ,私が,平成12年8月頃からずっと,勃起不全の状態にあったことを理解してほしかっただけなのですが。),当然のことですが,Kはものすごく怒って,Kと私の関係はダメになりました。

(3) 平成14年6月ころ,復職の許可

平成14年6月ころ,ベンゾジアゼピン中毒から寛解したとして,ジャドスン医師から,私は,復職の許可を受けました。私は,オークランド市の Queens Academy of English という語学学校に勤め始めました。

しかし,ベンゾジアゼピン中毒から寛解した(甲A16)とはいえ,いつ私を襲って来るか分からないパニック発作,慢性的な不安・抑うつは弱まりつつも残っていた(甲A10,甲18の3)ので,持続的に働くことができず,平成15年5月26日,Queens Academy of English を辞めました。

その後は,私は,パニック発作などの影響で労働能力が著しく低下したため,自分の資格・経験に合った仕事に応募できず,やむを得ず給料の安い仕事をしていましたが,体力が続かず失業した時もありました。

本当は,これまでの私の経験と能力を生かして,日本での職と収入を得たかったのですが,パニック発作などの影響で再来日できませんでした(たとえば,来日する途中で,飛行機に乗っている最中に,パニック発作に襲われ,周りの乗客たちに自分が襲いかかるのではないかとの不安がありました。私は,実際に襲いかかったことはありませんが。)。

(4) 平成17年4月15日,日本での再就職

平成17年4月15日,長野県岡谷市の A to Z Language School で就職が決まり,再来日しました。A to Z Language School での勤務時間は週20時間未満でしたが,パニック発作と不安・抑うつがあることから,その時間の業務すら遂行することが難しく,平成18年3月31日に A to Z Language School を辞めて,平成18年6月14日から株式会社ブリティッシュヒルズで働きはじめました。

平成19年6月にブリティッシュヒルズの1年間契約が満了し,再び就職する必要がありました。私は,同年7月より,同じ福島県のJICAでの就職を決めました。JICAでは,1年間が4つの学期に分かれ,契約期間は3か月です。私は,同年7月から9月まで夏季学期,働きました。私は,その間,パニック発作などのため,同年10月からの秋季学期,働こうとしましたが,できませんでした。

そこで,また,一旦ニュージーランドに帰国することを余儀なくされました。平成20年1月からの冬季学期,JICAに戻ろうとしましたが,できませんでした。出来るだけ,同年4月からの春季学期,JICAに戻ろうと思いますが,現在,ニュージーランドで体調が思わしくなく,暫く様子を見なければなりません。


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7 調停から裁判へ

私は調停を申し立てましたが,私が1人でやっていた時はもちろん,この裁判で原告代理人を務めているA弁護士が受任してからも,私の側の主張とX医師・Sクリニック側の主張は,全く噛み合わず,調停委員も呆れていました。

結局,X医師は全く自分の非を認めようとせず,被告SKクリニックも,お見舞い金程度の100万円の額を提示しただけでした。これでは,到底納得できませんし,A弁護士も,「この額で諦める必要はありません。」と言ったので,私は,調停を終わらせ,訴訟をすることとしました。


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8 最後に

私は,X医師の投薬により中毒になって以来,辛い日々を過ごして来ました。

私は外国人で(ニュージーランド人),X医師は有名な医師ですが,もちろん,公正なお裁きがなされるものと確信しております。

なにとぞ,よろしくお願い申し上げます。                                     以上


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日本語訳について

このサイトの主要言語は英語です。裁判で使用された日本語の原文を除き、日本語はすべて翻訳となっています。

その翻訳は私自身を含む複数の人によって手がけられました。従って、品質やスタイルなどに違いが見られます。

私の母国語は日本語ではありませんので何卒ご理解いただきたくお願い致します。その結果として、日本語が不自然に響く箇所があるかと思いますが、どうぞご了承ください。

ジョン・マースデン

「もし何かの薬を飲み続け、それが長い長い災難をもたらし、あなたからアイデンティティをまさに奪い去ろうとしているのなら、その薬はベンゾジアゼピンに違いない。」

ジョン・マースデン医師
ロンドン大学精神医学研究所
2007年11月1日

フィリップ・ウーラス

「我々の社会において、ベンゾは他の何よりも、苦痛を増し、より不幸にし、より多くの損害をもたらす。」

フィリップ・ウーラス下院議員
英国下院副議長
オールダムクロニクルOldham Chronicle (2004年2月12日)

ヴァーノン・コールマン

「ベンゾジアゼピン系薬剤はおそらく、これまでで最も中毒性の高い薬物であろう。これらの薬を大量に処方してきた途方もなく大勢の熱狂的な医師達が、世界最大の薬物中毒問題を引き起こしてきたのだ。」

ヴァーノン・コールマン医師

薬という神話 (1992)

デイヴィッド・ブランケット

ブランケット下院議員、ベンゾジアゼピンについて語る。

「これは国家的スキャンダルである!」

デイヴィッド・ブランケット(英国下院議員)
1994年2月24日

ジェレミー・ローランス

「薬があれば、製薬会社はそれを使える病気を見つける。」

ジェレミー・ローランス (ジャーナリスト)
インディペンデント紙 (2002年4月17日)

マーシャ・エンジェル

「製薬会社に対して、彼らの製造する薬について公正な評価を期待することは、ビール会社にアルコール依存に関する教えを期待するのと同じようなものである。」

マーシャ・エンジェル医師
医学専門誌"New England Journal of Medicine"元編集長

マルコム・レイダー

「ベンゾジアゼピンから離脱させることは、ヘロインから離脱させるよりも困難である。」

マルコム・レイダー教授
ロンドン大学精神医学研究所
BBC Radio 4, Face The Facts
1999年3月16日

ヘザー・アシュトン

「長期服用者のうち15%の人たちに、離脱症状が数ヶ月あるいは数年持続することがある。中には、慢性使用の結果、長期に及ぶ障害が引き起こされる場合もあり、これは永続的な障害である可能性がある。」

ヘザー・アシュトン教授
医学博士、名誉教授
Good Housekeeping (2003年)

スティーヴィー・ニックス

「クロノピン(クロナゼパム)とは恐ろしい、危険なドラッグだ。」

スティーヴィー・ニックス(歌手)

ポール・ボーテン

この気の毒な問題に取り組む全ての関係者は、トランキライザー被害者の為に正義を提供するよう努めるべきである。

ポール・ボーテン(英国下院議員), 1994年

アンドルー・バーン

「ベンゾジアゼピンを飲むと災難がやって来る。」

アンドルー・バーン医師
オーストラリア, NSW, レッドファーン
ベンゾジアゼピン依存 (1997)

Informed Consent

The informed consent argument formed an integral part of the case because it was needed to prove negligence.

Without negligence there would have been no accountability, and therefore, no case from the outset.

In section 4 of his fourth report, Addictive Medicine Specialist, Dr. Graeme Judson explained the principles of prescribing and informed consent in relation to my case and sample applied.

Monitoring

The monitoring argument also formed an integral part of the case because it too was needed to prove negligence.

As above, without negligence there would have been no accountability, and therefore, no case from the outset.

As with informed consent, in section 4 of his fourth report, Addictive Medicine Specialist, Dr. Graeme Judson explained the principles of prescribing and monitoring in relation to my case and sample applied.

No Escapism

It was difficult to get any relief from the ongoing symptoms

Unlike injuries where you may get some relief from adjusting your posture etc, with drug dependency in my case, the pain was both mental and physical and ran 24/7 regardless…

裁きは公正ですか?

このセクションでは、私が闘った日本の裁判についてお話します。特にそこで現れた、明らかに不当な処置と思われる事例のかずかずを紹介します。これらの事例をわかりやすくお伝えするために、「東京高等裁判所の判決」と「中毒治療科の報告書」への参照箇所(リンク)がいくつか出てくるので是非ご参考ください。また、「中毒治療科報告書」は、一貫して、法的証拠およびDSM-IV-TRの依存症診断基準に基づいて書かれていることにもご留意ください。

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Echoing Voices

Seems people are all saying the same things over and over…

  • I was like a zombie
  • It felt like I was in hell
  • It was much harder to come off benzodiazepines than anything else I'd ever had before
  • It took a chunk of my life away
  • It has destroyed my life
  • The doctor never told me they were addictive / The doctor told me they weren’t addictive
  • When I complained my condition was worsening the doctor prescribed me more...

アイロニー

What are benzos for again?

The only time I’ve ever needed to visit a psychologist in my life was AFTER (wrongfully) being prescribed benzodiazepines…

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