私の闘い
東京高等裁判所の前で判決書を手にする私
病床から起き上がってまもなく、まだ中毒(依存症)による影響が残り、身体は弱ったままでしたが、私は日本で裁判を起こす準備に入り、最高裁判所までの長い道のりを歩み始めました。その目的は、ベンゾジアゼピン処方によって、私だけではなく多くの服用者が、いかに苦しめられ損害を被っているのかを理解してもらうためでした。
私と弁護士は、ベンゾジアゼピン系薬剤の危険性について世間にもっと注意を喚起し、日本でより安全なベンゾジアゼピン処方ガイドラインが設置されるよう働き掛けるために、本気で判例をつくってやろうと、この裁判を闘いました。
私が闘った相手は、世界的に有名な医師、彼が勤めていた病院、そして弁護団でした。
私はフルタイムの仕事をしながら、また、周りに支えのない一人暮らし生活を送りながら、異国の地で、母国語とは異なる日本語で、弁護士以外の力を借りずにたった一人で6年間この裁判を闘いました。
その他にも、裁判中、多くの試練とチャレンジに直面しました。たとえば、最高裁への上告理由書の準備をしていた最中の2011年3月に起きた東日本大震災と原発事故による影響をまともに受けました。実際、計画停電が続く中、避難場所から避難場所へ何度も移動しながら、自力で日本語の上告理由書を作成し準備を続けなければならなくなりました。
ページトップに戻る
2003年2月
訴訟の準備開始。
2006年2月
東京簡易裁判所で、私はひとりで民事調停を申し立て、最初は弁護士を立てずに自力だけでこの医師との口頭弁論を始めました。
2007年6月
東京地方裁判所で第1審開始。
2008年9月
住む場所も仕事もお金もないまま、原告本人尋問のために再び日本に戻ってきました。
2009年9月
東京高等裁判所で第2審開始。
2011年5月
最高裁判所に上告した時(東日本大震災の最中)も弁護士を立てずに自力で手続きをしました。そこまで行ったところで、この闘いは終わりました。
2011年11月
最高裁判所の決定が下されました。
ページトップに戻る
最高裁への上告理由書を作成中に福島から到着した荷物
放射性物質のフォールアウト、余震、計画停電などが続く最中、私は何度も住む場所を移動しなければいけませんでした。また、失業やホームレスも経験しました。そのような状況の中、私は最高裁判所への上告理由書を書き続けました。
原発事故後、避難住宅の前で
(長野県)
この大きな試練がもたらした苦痛の中で、私にとって最も耐え難かったのは、何よりも、年老いた母親にまで影響を及ぼしてしまったことです。私の医師による依存症が彼女に与えた影響は全く酷いものでしたが、申し訳ないことに、私は人生が完全に狂わされてしまったので、母が退職後の生活の為に貯めていた貯蓄の中から払ってくれていた私の大学の授業料も未だ返すことが出来ず、既に退職した彼女をサポートすることも出来ていません。
ページトップに戻る
高等裁判所の判決における決定的な矛盾は、私がDSM-IV-TRの診断基準に適合する薬物依存であったという事実を除外していない点にあります。DSM-IV-TRは世界的にも認められている診断基準です。このDSM-IV-TR基準が、本訴訟全体の基礎になっていました。
裁判官は「耐性」(基準1)と離脱症状(基準2)の2つだけにしか見解を示しませんでした。しかも、その見解はDSM-IV-TRの診断基準に基づくものではありませんでした。基準を満たしていた残る3基準については、裁判所は全く判断しないままになっています。
ページトップに戻る
私のストーリーは、いかにベンゾジアゼピンが破壊的になり得るかということを示すほんの小さな一例です。
私は、20年以上も前から、大切な時間やお金や労力を費やして、日本に来るために教育を受けたり、国際交流に従事してきたりしましたが、47歳の今、私には、家、家族、貯金、財産、生活の安定など、全く何もありません。あるものといえば、未返済の借金と裁判費用のみです。
ベンゾジアゼピン中毒(依存症)になることがなかったなら、必要のなかった苦痛や損失、損害が生じることもなく、裁判を経験することもなかったでしょう。そして、3.11の災害の際も、自分自身を立て直す余裕も持てたことでしょう。
ベンゾジアゼピン中毒とはこのようなものです。ドミノ倒しのように被害は拡大し得ます。その影響は、個人に止まるだけでなく、家族全体、仕事、そして間違いなく社会全体にまで広く深く及びます(アシュトン教授が指摘する社会経済コストを参照して下さい)。
ページトップに戻る
このサイトの主要言語は英語です。
その翻訳は私自身を含む複数の人によって手がけられました。
私の母国語は日本語ではありませんので何卒ご理解いただきたくお
裁判という究極のストレスに悩まされるチャレンジにおいて、私はいつもラグビーNZ代表のオールブラックス、とりわけキャプテンのリッチー・マコウ(Richie McCaw)からインスピレーションを得て、それを活かしていました。
状況がどんなに厳しくなろうと、どんなに不当に扱われようと、彼らが不平を言うことは決してなく、ただただ前進していくのです。
素晴らしい!
There were many challenges in my case.
These included fighting a world famous doctor in another country and language, acting as go-between for a harsh natured Japanese speaking lawyer and a sensitive natured English speaking doctor, making my Supreme Court Appeal whilst evacuating from Fukushima etc during the 3/11 disaster etc…
多くの人から、最高裁判所まで闘った理由やこのウェブサイトを作成するに至った動機について尋ねられます。
まず裁判については、私はただ単に「このような結果がもたらされる治療は有り得ない」と感じたのです。人が病院に行って、このように苦しむべきではありません。また、現在の医療界には、私だけでなく多くの人たちに影響を及ぼしている大きな問題が存在することを知りました。この問題について当局に注目してもらう必要があり、医師側も責任を問われる必要があると考え、裁判を闘ったのです。
このウェブサイトに関しては、処方薬中毒とはどのようなものかを知り、そして、この薬が社会全体に影響を及ぼしていることに気付いたことで、他の人が同じ目に遇い苦しむことのないよう何かをしなければと感じたのです。そこで、当サイトを立ち上げることにしました。
Below are some of the skills I needed to call upon in my case, however, unlike my case where I was required to play an active role between two countries and languages, not all cases may require such input from the claimants.
- Analytical
- Language
- Translation
- Communication
- Cross cultural
- People
- Negotiation
- Coordination
- Research
- Formal writing
- IT
- Computer
- Stress management
- Time management
- Money management
- Health maintenance
- Self awareness
- Adaptation
- Flexibility
- Endurance
- Control
- Drive
- Belief
- Commitment
- Sacrifice